プロ野球の怖い話
書いてく
期待してええんか?
>>2
25個ぐらい書いたけど今見返したら半分以上悲しい話やわ
期待
まず一つ
こういうスレでは大体挙がるけど
藤本和宏
元西鉄、広島の投手。
1967年にドラフト外で西鉄に入団。通算0勝のまま1969年シーズン後に自由契約となり広島に移籍した。
カープ2年目の1971年6月にプロ初勝利、初完封を挙げ8月にはノーヒットノーランまで達成するなど10勝6敗防御率1.71でシーズンを終え、最優秀防御率のタイトルを獲得するなど一気に飛躍した。
しかし、その後は成績が思わしくなく1974年まで広島在籍も1勝もできずに引退。2ケタ勝利を挙げタイトルまで獲得した1971年以外では1勝たりとも挙げることができなかった。
現在消息不明。ちなみに藤本が西鉄をクビになった1969年は黒い霧事件の真っただ中だった。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/藤本和宏
スタルヒン
元巨人、トンボなどの投手。
ロシア出身。一族がロシア革命以後迫害されており、9歳のときに家族と日本に亡命。旧制旭川中を3年時に中退、発足メンバーとして巨人に入団する。
戦前の巨人を沢村栄治らと共に支えるが国内の対ソ連感情が悪化するなか「須田博」に改名を余儀無くされたり軟禁されたりするうちに終戦を迎え、戦後は巨人を離れパシフィック、金星、高橋(トンボ)で1955年まで投げ続け、303勝を挙げた。
引退後の1957年1月、運転中に電車と激突し死去。享年40。
当時スタルヒンは旭川中の同窓会に友人と向かっていたが車を会場とは逆方向に走らせていた上に友人を途中で降ろし電車で行くように指示するなど謎の行動をとっていたようでその死には謎が残る。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヴィクトル・スタルヒン
>>13
ワイ旭川出身、初めて知った模様
スタルヒンの話よく知らなかったけどこんなやったんか
オリックス・三輪田勝利編成部長の自殺
イチローなどを発掘した阪急・オリックスの名スカウトで、当時オリックス編成部長だった三輪田勝利が自殺した事件。
1997年のドラフトでダイエーとの競合で沖縄水産高校の新垣渚(現東京ヤクルト)の交渉権を獲得したオリックスだが、当の新垣は「ダイエー以外なら九州共立大」と発言、入団拒否を表明。交渉にあたった三輪田は新垣との面会を断られたことを球団に報告するが上層部に激しく叱責される。心身共に追い込まれた三輪田は11月23日に那覇市内で投身自殺。享年53。
ちなみに三輪田自身も早大4年時に近鉄の1位指名を断って社会人野球に進んでいる。
なお、この事件以降オリックスは外れ1位の抽選を含めて一度も競合ドラ1のクジを当てていない(現在11連敗)。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/三輪田勝利
なおスタルヒンの娘は東京で日サロを初めて開業した模様
湯口事件
1970年に岐阜短大付属高校からドラフト1位で巨人入りした湯口敏彦の急死とそれに伴う巨人、球界へのバッシングのこと。
ファームで1年目5勝6敗、2年目2勝3敗という結果を残していた湯口。だが、2年目シーズン終了後辺りから湯口はうつ病の発作が見られるようになる。さらに1972年11月23日に行われたファン感の紅白戦で、体調が良くない中で登板した湯口は大炎上、川上哲治監督らから激しく叱責され、おまけにこの日の夜寮に戻らなかった湯口は二軍監督の中尾碵志から殴られ、うつ病をさらに悪化させる。11月27日の納会では誰が話し掛けても無言で、視点も定まらず、翌11月28日うつ病と診断された湯口は更に翌日都内の病院に緊急入院した。
翌年早くに湯口のうつ病は良くなりはじめた湯口は、2月15日に復帰、2月19日から宮崎での春季キャンプに合流した。しかし、初日から話し掛けても反応しない、真夜中に奇声を発するなど異常な様子だったため同室の淡口憲司はマネージャーの藤本健作に報告。首脳陣は合流翌日の20日に湯口を強制送還、藤本と帰京した。羽田空港のロビーで奇声を発し、暴れたりした湯口は空港警備隊に取り押さえられて緊急入院。
3月22日夕刻、湯口は病院のベッドで変死体となって発見された。享年20。
監督の川上が湯口の死に際して声明を発表したが、そのとき「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかった事です」と言ったことから、巨人はマスコミから激しいバッシング報道を受けた。球団は「死因は心臓麻痺」と発表したが、マスコミから「湯口の死は自殺で、その原因は球団ではないか」と非難されることに。イメージが地に堕ちた巨人は1973年のドラフトで1位、2位、3位の選手に入団拒否されることとなる。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/湯口事件
>>18
ヒェ……
日ハムにいた津田とかいう謎の選手。
日ハムにいた斎藤佑樹とかいう謎の投手
スタルヒンの没日って誕生日だったんだっけ
>>21
違うで
小瀬浩之
元オリックス外野手。尽誠学園~近大を経て2007年大社ドラフト3巡目でバファローズの指名を受け入団。ルーキーイヤーから58試合に出場し期待される。翌年も出場数を増やし規定不足ながら打率3割を打ち、そのオフに結婚式を挙げる。
3年目の春季キャンプ中の2010年2月5日にホテルから転落死。享年24。
当時のオリ監督岡田彰布は「訳が分からへん!昨日まで、元気にグラウンドでやってたんやから…。そんなの、考えられへん!」とコメントしたが死の前日、練習中のトレーニング室では元気がなく、帰りのバスでは頭からタオルを被って座席に身を沈めている姿が目撃されていた。
京セラで見かけた小瀬ユニのおばちゃん、元気にしてるやろか
こんなシリアスなどんでん嫌や
阪神の背番号40
土橋修
元阪神投手。右投右打。
粉河高校から日本新薬を経て1965年阪神入団。
1966年12月19日、故郷の和歌山に戻っていた土橋は自動車学校からの帰宅中、和歌山市内の六十谷橋で車にはねられ両足骨折、頭部打撲の重傷を負い、2日後に死去。享年22。一軍出場は無かった。
なお同年には中日の加藤投手も交通事故死している。
土橋が生前付けていた背番号40は1年欠番となった。阪神の背番号40を付けた選手のうち土橋の前に付けた並木輝男は49歳の若さで急死、ラインバックは引退後事故死、塩谷和彦は詐欺事件を起こし実刑を食らうなど不吉な番号と言われている(現在は鶴岡一成が着用)。
>>28
おいおい鶴岡・・
>>28
ワイの遠い親戚で元プロ野球選手やったけど交通事故で死んだ人がおるって小さい頃きいた覚えが……まあそれが現役やったんか普通に引退後やったのかはわからんけど
ちなみにパッパの故郷は和歌山や
小瀬はマジで胸糞
岡田がパワポケに出てきそうなセリフ吐いてて草
阪神の40番ってこんなことがあったんか…
メジャーは歴史長いだけあって怖い話とか悲しい話多い何人か現役で殺されてるし
マーティ・バーゲン
19世紀のメジャーリーガー。ボストン・ビーンイーターズ(現ブレーブス)の捕手だった。
スローイングの正確さなどで評価された名捕手だったが新聞に「無口で不機嫌な男」と書かれるような選手で、長男を亡くしたのち精神疾患(統合失調症とも)にかかり奇行が目立つようになる。
1900年1月19日の早朝、バーゲンは寝室にいた妻を斧で何度も殴り殺害。続いて3歳の次男を斧の刃で叩き殺し、最後に6歳の長女も同様に斧で殺した。家族を皆殺しにしたバーゲンはカミソリで自身の喉を切り自殺。享年28。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/マーティ・バーゲン
塩谷は残当やろ
背番号のせいではないわ
エド・デラハンティ
19世紀から20世紀初頭にかけてメジャーで活躍した外野手。1945年野球殿堂入り。
長い間フィリーズで活躍し、3度打率4割をマーク。本塁打や打点トップも複数回マークし”Big Ed”(ビッグ・エド)の愛称で親しまれる。1902年、セネターズ(現ツインズ)に移籍したデラハンティは打率.376で首位打者に輝いた。
翌1903年の6月25日、デラハンティはゲームの後妻に会うためチームから一時離れる。
7月2日、列車の車中で泥酔したデラハンティはナイアガラ・フォールズ駅で強制的に降ろされ、その後ナイアガラの滝に転落し死去。享年35。
発見された遺体から所持金がなくなっているなどその死には不審な点がある。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/エド・デラハンティ
試合中の事故で死んだ選手
レイ・チャップマン
1910年代に活躍したインディアンズの遊撃手。
1920年8月16日、ポロ・グラウンズでのヤンキース戦の5回、先頭打者としてバッターボックスに入ったチャップマンは相手投手カール・メイズが投じた1ボール1ストライクからの3球目が頭部に当たり倒れた。「カールには気にするなと伝えてくれ」と言い残し、病院に搬送されたが頭蓋骨が9cmも陥没しており事故の12時間後に死去。享年29。
元々評判の良くなかったメイズは事故後インディアンズを含む他球団の選手らから激しい非難を受け、そのうちチャップマンに好意を抱いていたタイ・カッブはメイズに「可能であるなら、私はチャップマンの墓石にこう刻んでいただろう。ここに傲慢、悪質、貪欲の犠牲者が眠る」と書いたノートを渡した。ちなみにメイズは晩年に「俺は悪くない」と言った発言をしている。
現在に至るまでアメリカにアンダースロー投手が少ないのはメイズがアンダースローだったからとも言われている。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/レイ・チャップマン
小瀬事件以降、2000本安打間近の大村が突然干され出して早々に引退、以降全く大村の話が一切ないっていうのがどうもね
荒川事件とかは・・・数奇な野球人生やけど悲惨ではないか
アンダーでも9㎝陥没とか…
ファウルボール直撃という試合中の事故で絶命したのは元阪神のクールボーの弟もそうやな
ランナーコーチがヘルメットかぶってるのはこの事故以来のこと
怖くないけど
岸一郎
大阪タイガース元監督。1955年の一時期指揮を執った。
戦前に早大や満鉄でエースを務め、戦後は兵庫県立大の前身校で1年だけ監督を務める。
1955年、阪神監督に就任。球団との関係が無い岸を起用した理由には「運輸省を訪れたオーナーが雑談で監督を探していると言ったところ紹介されたのが岸」「毎試合投書を送っていたところ目をつけられた」などの説がある。
監督に就任後は先発ローテーション制を導入するなどチームの改革に乗り出し、若手を積極的に起用。ところが藤村富美男らベテランの反発に遭いシーズン中に退任。残りのシーズンは藤村が指揮を執った。以降の人生は知られておらず、没年も不明。1894年生まれなので間違いなくこの世にはいない。
ちなみに岸が積極的に起用した若手は小山正明や田宮謙次郎、三宅秀史らを筆頭に後に大活躍した選手が多く、チーム成績も16勝17敗と悪くはなかったため阪神史上最も謎が多い監督ではあるが少なくとも無能ではなかったと思われる。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/岸一郎
昔の野球選手は立派な成績残したのでも普通に消息不明になってたりして怖e
>>57
昔の阪急にいた代打本塁打の世界記録を持つ高井保宏は今はビルの警備員やってるとか
ロッテの26番は悲しいよな
華々しいプロ生活を送った選手が数万円の為だけに人殺してムショ送りになるなんて…
■巨人の背番号4番が永久欠番の理由
黒沢俊夫という選手がつけていた背番号。彼が病気で亡くなったその日に、グラウンドで黒沢選手を見た選手が何人も居た。
死してなおグランドに立ち続けていたのか・・・
>>70
巨人というと寮に幽霊が出るらしいで
木村正太っていうカーブがいいピッチャーがおったんやけど新人のとき見てしまったらしい
想像以上に怖かった
1番怖いのは小瀬
>>73
やっぱり生でプレーを見たことある選手の死はインパクト強いよな
小瀬は球団が絶対なんかしらでっかいこと隠してるやろ
小瀬のはそもそも原因から分からんのやからな
湯口は原因はわかるやん
村田元一
金田天皇が君臨していた時代の国鉄の2番手投手
9回2死まで完璧に抑えていたにもかかわらず最終打者の微妙な当たりをヒットと判定され、惜しくも完全試合を逃した
王貞治に通算1号本塁打及び2号を打たれた投手としても知られている
通算118勝を挙げるも、引退時に野球用具やトロフィーなどを全て廃棄、球団に名簿から名前を抹消するように訴えた
その後もメディアの取材を全て拒否、日本プロ野球界とは現在も絶縁状態が続いている
なんとなく記憶には残ってるけど怖くはなかったわ
■沢村栄治の最後
徴兵によって1938年から1940年途中までを棒に振っただけでなく、手榴弾を投げさせられたことから生命線である右肩を痛めた。また、戦闘中は左手を銃弾貫通で負傷、さらにマラリアに感染した。復帰後はマラリアによって何度か球場で倒れたり、右肩を痛めたことでオーバースローからの速球が投げられなくなったが、すぐに転向したサイドスローによって抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球を披露し、3度目のノーヒットノーランを達成した。
その最期は誰も詳しく分からない。船名すらはっきりしない輸送船に乗り、12月の東シナ海で米軍潜水艦の魚雷を受けて撃沈、多くの兵士とともに戦没した元巨人のエース、沢村栄治投手は野球選手としてではなく、陸軍伍長として27歳の短い生涯を閉じた。
>>79
二度生き残りながらも最後の最後で・・・だったのが悲c
ただ、もしも生きていたら近藤真市みたいな「知る人ぞ知る投手」で終わってた可能性も高いってのは皮肉やね
殺されたメジャーリーガー
なおやってることはカッスレと大して変わらん模様
レン・コーネッキー
元ドジャースなどの外野手。1934年にドジャースで打率3割を記録するが翌1935年は成績を落とし、更に酒グセが悪かったようで手に負えなくなった球団は9月15日、カブス戦後にブルックリンへ強制送還することを決定。
セントルイスからデトロイトへ向かう航空機内でウイスキーを暴飲したコーネッキーはスチュワーデスを殴るなど暴れに暴れまくり、最終的には椅子に縛り付けられる。飛行機はなんとか無事にデトロイトへ到着したがコーネッキーはここで意識を失うが、その後復活したコーネッキーはバッファロー行きの飛行機に乗った。
案の定バッファロー行きの機内でも乗務員とトラブルを起こし暴れ出したコーネッキーだが、このとき副操縦士相手に暴れ回ったため飛行機は危うく制御を失いかけた。墜落を避けるために操縦士がコーネッキーを数発殴り、小型の消火器を頭にぶつけた結果、コーネッキーは脳内出血で死亡。享年31。飛行機はトロントの競馬場に緊急着陸し無事だった。
なお操縦士は過失致死罪で起訴されるも無罪となった。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/レン・コーネッキー
>>87
このままカッスレとして投稿されてても違和感ないくらいひどい文面
小人症のメジャーリーガーの話もよろしく
>>88
ストックに入れてなかったからちょっと待ってて
あとで書くわ
>>88の小人症メジャーリーガーの話
エディ・ゲーデル
元セントルイス・ブラウンズの選手。小人症で身長僅か109cmだった。
1951年8月19日に行われたブラウンズ対タイガースのダブルヘッダー第1試合終了後に、ア・リーグ創設50周年イベントとして小さな劇が上演された。シェイクスピアの作品に登場する騎士フォルスタッフの誕生祝いという内容でグラウンド内に運び込まれた中から小人が飛び出すシーンに観客は拍手喝采を送った。
続いて行われた第2試合。1回表、ビジターのタイガースの攻撃は無得点に終わる。その裏はブラウンズの攻撃だが、トップバッターにいきなり代打が送られる。
「ピンチヒッター、エディ・ゲーデル。背番号8分の1」
なんと代打で出場したのは先程の劇でケーキから飛び出した小人。
球審が説明を求めると、ブラウンズ側はゲーデルの選手契約書、アメリカンリーグの選手登録許可書、当日の試合参加選手登録書を差し出した。これだけ揃えば出場可能なため球審はプレーを宣告。
結果はストレートの四球。ゲーデルには代走が送られ、この初打席が彼の人生で最後の打席となった。
ゲーデルが言うには、このことの発案者でブラウンズの名物オーナー、ビル・ベックから「バットを振ったら、球場の屋根にいるスナイパーに射殺させる」と言われたとのこと。
なお、ゲーデルは10年後に暴漢に襲われ死去した。享年36。
>>105
アメリカの闇は深い
>>105
引き受けざるを得ない状況まで追い込んだんやろなぁ…
>>105
見せ物でプロにさせたのか
>>105の話はwikiで読むとだいぶ胸糞やで
黒沢の話が出てたので
黒沢俊夫
元巨人外野手。旧制八尾中学から関西大学を経て1936年、名古屋金鯱軍に入団。大洋軍(≠後の大洋ホエールズ)、西鉄軍(≠後の西鉄ライオンズ)を経て1944年に巨人軍へ移籍する。移籍後は主軸として活躍するも1947年シーズン中に腸チフスで死去。享年33。巨人は黒沢に敬意を表し球団葬を行い、本人の遺言通りにユニフォーム姿で葬られた。後に千葉茂らの発案で黒沢の背番号4は永久欠番になる。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/黒沢俊夫
グレッグ・ハルマン
元マリナーズ。第2回WBCオランダ代表。
メジャーリーガーとしては通算でも僅か40試合強の出場に留まったが、マイナーでは20本塁打を複数回記録するなど長打力のある選手だった。ただ三振も非常に多く、メジャー通算安打数が24なのに対して通算三振数は43だった。
メジャーリーガーとして2年目のシーズンを終えたハルマンはオランダに帰郷しロッテルダムのアパートで暮らしていた。
2011年11月21日、同じアパートの別室に住む弟のジェイソンが騒いでいたためハルマンとその彼女はジェイソンが静かになってから眠りについた。
その後午前4時頃にジェイソンが外出先から帰宅し、ハルマンらは一旦起きた。2人が再び眠ろうとするとジェイソン聞いていた音楽の音量を上げたため口論に。激高したジェイソンにハルマンは刺殺された。享年24。
ジェイソンは精神鑑定の結果無罪となった。
>>91
ああ…少ないオランダ人野球選手が…
>>91
やっぱりきたかチームオラニエの4番
>>91
セーフコでハルマンの第一号ホームラン見たんだよ…
その年の末に無くなったのを知った時はショックだったよ
多田野がもしアメリカで死んだり消息不明になったとしたら間違いなく伝説にやるやろうしなぁ
元気に日本に帰ってきて何よりやでほんと
>>93
裏ビデオってソッチ系の繋がりも強いだろうし893にさらわれたとか言われそうやな
生力松太郎暗殺未遂とか以外と怖いで
犯人は「神宮に外人を招き穢した」って証言したけど、実際は他紙の幹部の差し金だったっていう
>>95
正力松太郎襲撃事件
1934年巨人を設立した正力は翌年、読売新聞本社前で右翼に斬りつけられ瀕死の重傷を負った。実行犯は前年に正力が大リーグを招聘して神宮球場で試合を行ったことが神域を穢したということなどを動機に挙げたが東京日日新聞幹部の指示があった模様。
特攻で散った中日(名古屋)のエース
石丸進一
元名古屋軍の主戦投手。太平洋戦争中の中日前身球団を支えた投手で佐賀商業学校から出征中の兄に変わって内野手として1941年に名古屋軍入団。翌年兄の復員後は投手となり、17勝を挙げる。3年目となる1943年シーズンは10月2日にノーヒットノーランを達成するなど前年以上の好成績(20勝12敗)を残す。1944年春に応召し、翌1945年には特攻隊に志願。5月11日に鹿屋基地から出撃し帰らぬ人となった。享年22。
出撃前に鹿屋基地の同僚でアマ選手の本田耕一とキャッチボールをし、10球投げたところで「これで思い残すことはない」て言ったという。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/石丸進一
戦争が絡む選手は闇が深すぎる
>>104
この頃は戦争でどこも国自体の闇が深すぎたからな
日本も荒みきってたらしい
でも現代に近づくにつれ個人の闇が深まってるのが恐ろしい
ヤクルトの3番=外国人というイメージの元祖
ちなみにこの人もバレみたく離婚問題を抱えていた
ルー・ジャクソン
元サンケイ(現・東京ヤクルト)外野手。カブス、オリオールズなどを経て1966年にスワローズ・アトムズ史上初の外国人選手としてサンケイ入団。「褐色の弾丸」などの愛称をつけられ親しまれ、オールスターにも出るなど活躍した。
1969年3月26日、オープン戦の打席で突如倒れ、入院。5月27日に膵臓壊死で死去。享年33。今に至るまで日本本土で死去した唯一の元メジャーリーガーである。焼き鳥とビールを毎日欠かさず飲み食いするなど極度の偏食がその死の原因となった。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ルー・ジャクソン
怖くはないが藤井将雄の話
この人も津田恒実も「炎の」投手
藤井将雄
元ダイエーの中継ぎ投手。
唐津商業高校から日産自動車九州を経て1994年ドラフト4位でダイエー入団。ルーキーイヤーから完封勝利を挙げるなど活躍し、3年目に中継ぎになると1999年には最多ホールドのタイトルを獲得しホークス福岡移転後初優勝に貢献する。
1999年の日本シリーズ前に体に異変が見つかりオフに入院。この時点で末期のガンだったが本人には別の病名が伝えられていた。
2000年シーズンは入退院を繰り返しながらファームで6試合に登板するなど回復していたが6月末に再入院。10月に入ると病状は悪化し、チームの連覇を見届けた後10月13日に死去。享年31歳。
藤井の背番号15は死後今に至るまで欠番となっている。個人後援会会長は今年ベイ戦力外の北方の父だった。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/藤井将雄
久保寺雄二
元南海の内野手・外野手。
静岡商業高校から1976年ドラフト2位で南海入団。1980年には初の規定打席に到達し、以降もレギュラー格としてプレーをする。
三塁手として華麗な守備を見せ、1984年には藤原満の背番号7を受け継ぐなど更なる飛躍が期待された。
しかし1985年1月4日の未明、実家で就寝中に体の不調を訴え、救急車で近隣の病院に運ばれたが手当の甲斐もなく、急性心不全で死去。享年26。
静岡商業高の同級生に近鉄の大石大二郎がいる。久保寺の葬儀の際には大石が友人代表として号泣しながら弔辞を述べた。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/久保寺雄二
>>112
突然過ぎるやろ…
なんか若くして亡くなった野球選手スレになってるな
怖いというよりかは寂しい気持ちになった
ライマン・ボストック
元ツインズ、エンゼルスの外野手。
1975年メジャーデビュー。1977年にはリーグ2位の打率.336をマークする。1978年からエンゼルスでプレーする。
4月は打率.150と散々な成績で4月分の給料の返上を球団に申し上げたが拒否されたため、以前から日曜学校の再建支援やスポーツ用品の寄付など慈善事業に熱心だったボストックはその給与を寄付すると発表。
シーズン終盤、9月23日の試合後にボストックは叔父宅を訪問。その後叔父と共に彼の家庭教師だった知人女性を訪ねた。当時女性宅には夫からDVを受け、離婚申請中だった妹が同居していた。
4人は叔父のボストックの運転で外出したが妹の夫がそれを別の車の中から確認しており、妹とボストックが親しそうにしているのを見て妻の浮気を疑ったという。ボストックらの車が停止した際に妹の夫は自分の車から妻へ散弾銃で発砲したところ、こめかみに発砲を受けたボストックは2時間後に死去。享年27。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ライマン・ボストック
>>124
なんでこんなぐう聖な人がそんなゴミカスクソ人間に殺されなきゃいかんのや
>>124
ひでえな…これ
闇が深いといえばこれ
初めに書いた藤本はこれのことで消されたのかも
黒い霧事件
1969年から1971年にかけて球界を揺るがした八百長事件。西鉄ライオンズの永易将之投手、池永正明投手ら6名が永久追放となるなど江夏豊ら19選手が処分を受けた。この影響でかつての名目西鉄は弱体化し、その後身売り。プロ野球史上最大の事件。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/黒い霧事件_(日本プロ野球)
>>129
NPBの闇の代名詞やな
カープのクローザー
津田恒実
元広島投手。「炎のストッパー」。
1981年、協和発酵からドラフト1位で広島入団。ルーキーイヤーに先発で11勝を挙げ、新人王に輝くが、翌年以降血行障害やルーズショルダーで登板数が激減した。その後血行障害の出場を受け1986年にはクローザーとして復活。カープの優勝に大きく貢献し、カムバック賞を受賞した。以降1989年まで活躍する。
不調に終わった1990年のシーズン終了後から頭痛など身体の不調を訴えはじめる。1991年4月14日、この日の巨人戦でシーズン初登板を飾った津田だが原辰徳にタイムリーを浴びるなど乱調で僅か9球でマウンドを降りる。この日が津田の生涯最後の登板となった。
翌日検査入院した津田に脳腫瘍が見つかる。このシーズンを終えると津田は広島を自ら退団。闘病しながらマウンドへの復帰を目指した。
一時は奇跡的な回復を見せた津田だったが1992年6月以降再び病状が悪化。福岡市内の病院に入院するが、1993年7月20日に死去。享年32。
福岡での闘病生活を支えたのは広島の元同僚で当時ダイエーで大親友の森脇浩司。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/津田恒実
>>138
病気で亡くなるのはほんまに残念やわ
バースや原との対決は生で見たかった
長嶋も帰り道間違ってなかったら大変なことなってたんやな
>>139
どういう
>>142
ガセやったらすまんが長嶋誘拐未遂事件ってのがあったらしいんや
帰り道を待ち伏せしてたらしいんやけど長嶋がみち間違えて来ないもんだから計画がバレたと思った容疑者は自主した
ミスターのほうの長嶋やで
>>144
サンガツ
やっぱり天才は運もいいな
>>144
ファッ!?
>>144 訂正
車で尾行してたんやけど1回目は見失い2回目に道迷って帰り道と全然違うところうろついてたからバレたのかと不安になった容疑者は自首した
>>144
これとかもし落合がプロボウラー試験の日にスピード違反してなくて普通に試験受けられてたら野球選手にはなってなかったと考えるとレジェンドってけっこう紙一重の産物なんやなと思うわ
スパイスの先輩
板沢峰生
元西武の内野手。
我孫子高校から1979年ドラフト外で西武入団。2年で甲子園に出場した際には、当時1年の和田豊と三遊間を組んだ。
ルーキーイヤーからファームで打率.238 2本塁打をマークし、更に堅実なフィールディングで注目を集めたが同年12月3日、帰省中に急性心不全で死去。享年19。
西武は板沢の背番号59を1981年から1989年(板沢入団から10年目)までの9年間欠番とした。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/板沢峰生
長嶋が息子を球場に子供を忘れていく事件
小川博
元ロッテの投手。
前橋工業高校から青学大を経て1984年ドラフト2位でロッテ入り。サイドスローから投じるストレートとシンカーを武器に活躍する。1988年にはオールスターに出場。更に10.19では第一試合の先発を任された。この年は203.1イニングで204奪三振を奪い、奪三振王(タイトル制定前)。小川のこの活躍が元で最多奪三振のタイトルが制定された。
しかし翌年以降調子を落とし活躍できず1992年に引退。1999年までマリーンズでコーチを務め、2002年まで編成担当として球団に残った。
ロッテ退団後は産廃処理会社に勤めていた。
2004年11月18日、小川は緊急に返済が必要な3万円を借りに勤務先の産廃処理会社の会長宅へ向かった。留守の会長に代わり家政婦の67歳女性が応対。金の無心をした小川だが断られる。更に土下座までして借金を頼んだが再び女性が断る。
小川はキレた。女性を突き飛ばして気絶させ会長宅から現金175万円を奪い女性を車に乗せ、彼女を埼玉県桶川市内の旧荒川に投げ入れ殺害。離婚の慰謝料やエロサイト使用料金などで経済的な苦境に立たされていた小川には当時1000万を超す闇金からの借金があった。マリーンズを追い出された理由も闇金の督促が球団にまで及んだことが原因だった。
さいたま地裁、東京高裁の判決は共に無期懲役。
ロベルト・クレメンテ
往年のパイレーツのスター選手。1973年殿堂入り。
ドジャースのマイナーからパイレーツに移籍し、1955年メジャーデビュー。その後はパイレーツ一筋でプレーした。首位打者4回、12年連続ゴールドグラブ賞、1966年ナ・リーグMVPなど活躍したクレメンテは1971年にWSMVPに輝き、1972年には通算3000本安打を達成。しかしその3000本目のヒットが彼の最後のヒットとなる。
華々しい活躍の一方で慈善事業に熱心だったクレメンテは1972年12月23日にニカラグアで発生した地震の救援のために現地入りを決める。
31日の夜に最大積載量を超える救援物資を積み込んだ飛行機でニカラグアへと向かったクレメンテだが、直後に飛行機がカリブ海へ墜落し死去。享年38。機体の一部が揚がったのみでクレメンテの遺体は最後まで見つからなかった。
当時慈善事業に熱心な選手に送られていた「コミッショナー賞」は「ロベルト・クレメンテ賞」に変わり、今もなお続けられている。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/ロベルト・クレメンテ
>>156
普通にレジェンドクラスの成績やけど、死んでなお魅力が増してると思うわ
練習中に…
宇佐美和雄
元西鉄投手。
カーブ、シュートが武器の本格派の右ピッチャーで1968年に木更津中央高校から西鉄ライオンズに3位指名されて入団。同期には東尾修(1位)がいる。
1969年3月14日、雨天練習場で練習中に同僚の打球が左胸に直撃し倒れる。人工呼吸や酸素吸入などの処置を施されたが30分後に死去。享年18。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/宇佐美和雄
阪神土橋と同年に交通事故死
加藤斌
元中日投手。右のアンダースロー。
作新学院高校ではエース八木沢壮六(後ロッテ)の控え投手も1962年の夏の甲子園前に八木沢が赤痢にかかり、代役として加藤がエースに。作新学院は優勝を果たす(春夏連覇)。大会後巨人などとの争奪戦を制した中日に入団。ルーキーイヤーから一軍で投げ、初勝利も挙げた。
しかし3年目のシーズン前の1965年1月3日、帰省中の加藤の作新学院のクラス会に出席し、2次会に行くため車を運転中に凍結した路面でハンドル操作を誤り事故を起こす。頭蓋骨陥没で意識不明の重体だった加藤は病院に搬送されるもそのまま目を覚ますことなく翌日死去。享年20。当時同乗していた友人は軽傷だった。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/加藤斌
伊良部秀輝
言わずと知れた速球王。1987年ドラフト1位でロッテ入団。1993年に当時最速の158km/hを叩き出すなど活躍する。1997年からヤンキースでプレー。エクスポズ、レンジャーズを経て2003年に阪神に入団し、同年の優勝に貢献するが翌年は振るわず解雇。アメリカでうどん屋チェーンを開くが後に閉店。2009年には米独立リーグで現役復帰。8月には四国アイランドリーグ・高知に入団。2010年開幕前に引退宣言。
2011年7月27日、ロサンゼルス近郊にある自宅で、首を吊った状態で死亡しているのが発見された。享年42。警察は自殺と断定した。事業に失敗した、妻子との別居が続いていたなどのことが自殺に追い込んだとかんがえられる。
彼の死を受けてかつて在籍したヤンキース、阪神、ロッテの各球団が黙祷。
遺骨は本人の希望によりロサンゼルスの東本願寺別院に納骨されるはずだったが、妻とその母親により中陰の前に千葉市内の寺に無縁仏として納められた。
ミゲール・デルトロ
元西武の投手。メキシコ出身。
パイレーツマイナーやメキシカンリーグを経て1999年ジャイアンツでメジャーデビュー。2001年に来日し西武入団。主にリリーフで14試合に登板するが1勝1敗、防御率5.59と振るわずオフに解雇。メキシコ帰国直後にトラクターとの事故に巻き込まれ死去。享年29。
西武はデルトロの死を悼み背番号32を一年間欠番とした。
ストックはこんなもんかな途中から悲しい話ばっかりなったけどちな檻やけど思ってた以上にオリックスの闇が深いと思った(KONAMI)
見てくれでありがとうやで
サンイチ
面白かったでー
いちおつ!
乙やで
楽しませてもらったで
キムタクの悲しい事故が上がらなかったンゴ…
>>182
キムタクは書こうかと思ったけど初め怖い話でやってたから書かなかった
ちなみに小瀬と小林繁(日ハムコーチ)とキムタクは同じ年に亡くなってる 藤井とデルトロは大体1年ちょっとの間隔で亡くなった
阪神土橋と中日加藤は同じ1966年に事故死
黒い霧事件とジャクソンの死は1969年
不幸は重なるのかも
怖い話では、無いけど
世界最多安打2位の2 257安打:ジョージ・シスラー200安打6回 1920年:ブラウンズが亡くなった年に世界最多安打1位の1 262安打:イチロー*10年連続200安打! 2004年:マリナーズが生まれたんだよね
偶然?