戦前のアイドル・明日待子さん(97歳)、今もご健在…当時の思い出を聞く
かつて、新宿の劇場「ムーラン・ルージュ」で、多くのファンを虜にしたアイドルたちがいた。彼女たちは、いかに戦時を生き抜いたのか。そして、何を考えたのか。
この3月で97歳になった明日待子さんは、元アイドルだ。
かつて東京・新宿にあった劇場「ムーラン・ルージュ」で、多くのファンを虜にした彼女を人々はこう呼んだ。「まっちゃん」と。
日本が戦争に突き進んだ激動の時代、アイドルとして生きた一人の女性。お元気でいられると聞き、取材を申し込んだ。
会ったのは、浅草の喫茶店だった。真っ白なスーツにショートのボブヘア。 もうすぐ白寿を迎えるとは思えない、可憐なオーラをまとっている。
耳は少し遠く、補聴器が必要だ。それでも語り口はしっかりとしていて、言葉にも覇気がある。そしてなにより、笑顔がとても、かわいらしい。
「アイドルをしていた時は、本当、楽しかったですよ」
ガムシロップを少し混ぜたレモンスカッシュを、美味しそうに飲みながら。明日さんは、ぽつり、ぽつりと話を始めた。
明日さんは13歳のころ、ムーランの主催者の養女になった。
親元を離れて東京へと移り、釜石にいたころにも増して、芸を学ぶことに力を入れた。
1933(昭和8)年にデビューすると、瞬く間に人気が出た。そのあどけのない見た目から、広告モデルとしても引っ張りだこになったという。
「初恋の味」のキャッチコピーで売り始めていたカルピスの専属になった。花王石鹸、キッコーマン醤油、ライオン歯磨き……。さまざまな商品のポスターも飾った。
人気アイドルは、多忙を極めた。朝は稽古、正午に開演、そのあとはポスター撮影。そして夜の稽古と、「超過密スケジュール」をこなしていたのだとか。
そうして気づけば、いつの間にか、たくさんのファンが付くようになった。ただ、ファンレターは一切、見せてもらうことはなかったという。
「事務所がね、『ファンレターにはろくなことが書いていない』と言って。行李いっぱいに届いていたものが、私の手元には届かなかったんです。事務所と家とで、みんな管理されてたの」
「みんな没収しちゃうんです。あとになって、2、3枚だけ見せてもらった。どこどこで待っていますよ、とか、そういうのが多かったですね」
さらに、ファンとの交流も厳しく制限されていたそうだ。
「ファンの人とは直接お話したいという気持ちはありましたね。それでも、なかなか会うことはないです。お話しをさせてもらえない。だけど毎日毎日、見える顔はわかりますからね」
「ある日ね、いままで学生服着ていた方が、背広を着ていらっしゃったの。そしてね、ご自分が就職したからって言って、中村屋のチョコレートの入った箱をくださったの。もちろん、事務所の人が立会いですけれど」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170304-00010000-bfj-soci
(続き)
戦時色が強まるなかでも、ムーランの人気は衰えることはなかった。いや、そういう時代だからこそ、求められていた存在だった。
一方で、検閲も始まった。「自由な作風」で知られるムーランの脚本や演劇の内容は、当時の軍や政府からすれば邪魔者だったのだろう。
劇場の名前は「作文館」に変わった。客席には警察官が常駐するようになり、芝居を途中で止められることもあったという。
ただ、軍だってアイドルたちを邪険に扱うだけではなかった。国策の一つとして、彼女たちを利用したのだ。
陸軍も海軍も独自の「アイドル雑誌」を発行していた。戦地に送るためのもので、目的はもちろん、兵士の戦意発揚だ。
明日さんも、そこでグラビアを飾ったことがある。兵士たちは毎月戦地に届くその雑誌を心待ちにしていたという。
1943(昭和18)年、戦争の雲行きが怪しくなり、学徒出陣が始まったころ。こんなことがあった。
ムーランにきた学生たちが突然、「まっちゃん万歳」と叫んだのだ。聞けば、客たちはみな、出征前夜だった。
「戦地へやられる、最後のムーランだっていう気持ちがあって、万歳三唱したんでしょう」
同じような出征前の兵士に、路上で刺されそうになったこともあった。
「劇場に通っている途中、飯田橋あたりで。軍事練習した帰りの学生さんが『明日さん』っていうから、はいと思ってみたら、銃剣を目の前に出されたんです」
近くにいた兵士の友人が慌てて止めに入り、ことなきを得たという。
この頃、明日さんはほかのアイドルたちとともに、満州へ慰問旅行に行っている。これもまた、軍による施策の一つだ。
失礼だとは思いつつ、「利用されたと感じますか」と聞いてみた。
「いいえ」。明日さんはそうきっぱりと言い、続けた。
「お国のため、兵隊さんのため、滅私奉公でしたよ。日本が勝つんだと、それは喜んでいましたね」
「でもね。終わったあとも、利用されたと思ったことはないんです。目の前にいる方は、兵士さんとかじゃなくって、皆さんファンだから。喜んでくれるかしらって、一生懸命でした」
そして東京は、戦場になった。
1944(昭和19)年の暮れ頃からは本土への空襲も始まり、もはや東京も安全な街ではなくなった。
それでも、ファンたちは劇場に足を運んだ。防空頭巾や鉄兜を持って。舞台を見ながら空襲警報がなると逃げ出し、解除されればまた劇場に集まる……。そんな日常が、当たり前になっていたという。
「警報が解除になったらね、蟻が餌を見つけたようにみんな戻ってくるの。ああいう状況だったからこそ、やっぱり、ムーランはみなさんの心の慰めになっていたんですね」
「私たちも、客席の人たちも、明日には弾が当たって死ぬかもしれない。だから、本当に緊迫した舞台でしたね。見るほうもやるほうも命がけでした。良かった、というとおかしいかもしれないですけれど、真剣な舞台が踏めて、よかったと思っていますよ」
アイドルをしていたことを、いま振り返ってどう思ってるのか。
「舞台が好き、そこに立つことが大好きでしたからね。やっぱり自分は、踊っても、歌っても、なんでも好きだから。それでファンにも、観ている人たちにも喜んでもらえるんだから。自分も満足でした」
「やっぱりアイドルをしていて、良かったと思えます。思い残すことはありません。それを青春時代というんですかね。うふふ。なんでもできた。なんでも考えられる、良い時代でした」
最後に聞いてみた。「アイドル」って、なんですか?
「アイドルはね、いつまでも消えないものですよ」
明日さんの顔が華やいだ。写真を撮らせてもらおうと、カメラを向けた。ファインダーの中にはたしかに、あの頃の「まっちゃん」の笑顔が、写っていた。(記事終)
明日 待子(あした まつこ、1920年3月1日 – )は、日本の女優、日本舞踊家。昭和初期~戦後にかけてムーランルージュ新宿座の看板スターの一人で、元祖・ライブアイドルの一人とされている。岩手県釜石市出身。
以下、2chの反応
本物の元祖アイドル
一番下の写真すごくきれい
美人やな
この顔立ちは年取るとこういう顔つきになるのね 勉強になるわ
可愛らしい。昔も今も。
かわいいおばあちゃん
幸せな人生を歩んできたんだろうと思う しかし若いわ~
朝ドラの題材になりそう
97であんな変なドアップ写真の撮り方でしわ少ないってすごいな
整形どころか歯列矯正や現代の補正力抜群のメイク無しで>>1なんだから百歳近くなってもそりゃ美人だよな
>>36
施設に帰るのはむしろすごく良いんじゃない? 独居でも、近くに親しい知人がいたりすれば幸せだと思う。
>>36
ググったら日本舞踊やってるみたい だからお元気なんだな
>>56
本仮屋ユイカみたいだ
>>56
すっごいきれい、手塚アニメのヒロインみたいw
>>61
わかる
>>91
戦前のスーツも渋いね。
この頃のアイドルはなんて呼ばれてたんだろう「アイドル」という呼び名があったのか別の名前だったのか
>>99
スターだね、看板スターとか看板女優とか
アメリカで人気若手芸能人をアイドルと呼ぶようになるのは、明日さんのデビュー前後ぐらいで、アイドルと言う呼称が定着するようになったシナトラのデビューはもっと後だし
日本芸能界でアイドル呼称を使うようになったのは確か橋幸夫からだったかな、それ以前は青春スターって呼ばれたはず
>>113
昔の芸能人は芸に対するプライドが高かったんだよね。 今は容姿だけでくだらないアホばかり。
若い頃アイドルヲタクじゃったワシも握手会に行ったわ懐かしいのう あの頃のワシはまだナウなヤングでのうチンコフル勃起で握手したわい
あの頃は待子タンに会うために毎晩通いつめたなぁ・・・
もう全てが懐かしい
劇場の真向かいにあったタコ焼き屋のおばちゃん、今も元気にしてるかなぁ