そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ
徳島大空襲から71年を迎えた4日、徳島大空襲を語るつどい(反核・憲法フォーラム徳島主催)が徳島市のふれあい健康館で開かれた。 13歳で空襲を体験した繁崎行雄さん(84)=同市明神町2=の講演に約60人が耳を傾け、不戦の誓いを新たにした。
同市佐古五番町にあった自宅で空襲に見舞われた繁崎さんは、次々に降り注ぐ焼夷弾が隣家を直撃し、母や姉妹の家族5人で家を飛び出して逃げ惑った当時を振り返った。 何とか無事だったものの、多くの遺体を見てぼうぜんとした気持ちを思い起こし
「戦争の悲惨さを風化させてはいけない」
と力を込めた。
熱心に聞き入っていた北原修子さん(28)=同市方上町舟戸川、主婦=は「9カ月の娘がおり、空襲に遭うと一緒に逃げ切れるかどうか。簡単に人の命を奪う戦争を繰り返してはいけない」と話した。
【写真説明】徳島大空襲の体験を語る繁崎さん(中)=徳島市のふれあい健康館
http://www.topics.or.jp/localNews/news/2016/07/2016_14676945970318.html
以下、2chの反応
爺さんが徴兵されて鉄拳制裁が怖かった、ぐらいしかないな
うちの爺さんは終戦直前に満州で餓死して2階級特進
曾ばあちゃんが、戦時中は空からよくアルミ片が落ちてきたって言ってた、なんだったんだろうか
>>8
レーダー対策のチャフじゃね?
普段温厚なおばあちゃんだけど、朝鮮人は嫌いみたい よっぽど嫌なことされたんだろうね
>>14
うちもそうだった。何も知らない当時小学生の俺は差別は良くないよって言ってたけど、ばーちゃんが正しかったわ。
>>55
あの頃の人は基本そうだよね
うちの爺ちゃんも婆ちゃんもえらく嫌ってるわ 貧乏な朝鮮人に仲の良い御近所さんが家を格安で貸してたけど それさえ何ヶ月も払わずに、催促したら逆切れしてきたらしい
んで最終的にもう出て行けって話になったんだけど ある日、ご近所さんは夜道で襲われて殺されたそうだ 犯人は分からずじまいだけど、爺ちゃんたちはその家族だと 完全に思い込んでるみたい
俺の爺さんがインドシナで敵の機関銃陣地を制圧した後、そこに置いてあったビールを仲間たちと飲んだんだって。美味しくてビックリしたって。
中国人の村を襲ったら村人の反撃で死者が出ちゃってその報復で村人全員小屋に閉じ込めて火をつけた話は聞いたな あと井戸に大勢落として上から手榴弾を投げ込んだ話も聞いた
大正生まれの亡き祖父が中国に出征して泥水すすって生きながらえた という話を祖母や母親から何かのきっかけで聞いた事はあるが 祖父自身から戦争については全然話してくれなかったなぁ…
住んでた家の板の間に空襲のケガ人が並べられてたと聞いたな
戦争で南方とかで戦ったお年寄り何人か知ってたけど お年寄りの割には顔と目が綺麗で根っから感じられる優しい人ばっかやったな
印象に残ってる話しでは池に手榴弾投げて魚取った話しと 的に頭撃たれたけど鉄ヘルの中で銃弾がぐるぐる回って助かったとか
伏せたカーチャンの少し離れた家屋が空襲で吹き飛んだ@広島
疎開した岩国で学校の屋上から広島の方を見たらキノコ雲が上がってた
毎年聞かされる
愛知県一宮出身のおばぁちゃんが子供のころ田んぼのあぜ道歩いてたら機銃掃射受けて田の側溝に飛び込んだって話し聞きますた (´・ω・`)
うちのじいちゃん仮病で戦争行かなかったんだが実は陰でこっそり米軍と戦ってたらしく単身で北海道から九州に渡って米軍の秘密占領部隊と一人でやりあってたらしい
その時の米軍がそうとう強かったらしくその時の激しい戦いで蓄膿症になったって言ってた
俺の誇りだよじいちゃんは
>>35
すき
ありがちな「生きて帰ってきたら結婚してください」を体験した人が、ばぁさんの知り合いにいる。 本当に生きて帰って来たので結婚したらしい。
海軍で信号旗をふってたらしい
夜は飲み放題、歌い放題
なんか呉の町では切符でなんでも買えたらしい
叩かれるかもしれないけど釜山に住んでいた
戦後は半島から、あるいは満州から引き上げるとき船に乗ったんだが、何度も何度も停止されてそのたびに金品を要求されたんだと
帰りたかったので皆身に付けていたものを少しずつ払ったらしい 朝鮮の人達と仲はそんなに悪くなかったが、負けたと知ったときの手のひら返しは半端じゃなかったと…;;
一部勝ったと誤解して喜んでたアホもいたと聞いたな…
>>38
度々こういう話は聞くね
北朝鮮の元山に住んでたじいばあが集うサイトにもこんな話あったような
直接戦争に関わる話じゃないけど今現在80歳のおじいちゃんは元校長だが日教組大嫌いだそうな
若い頃は日教組と闘ったらしく過激なヤツだったと語る父はリベラル気取りのカスだわ俺はニートだわでおじいちゃんが可哀想だぜまったくよ
とまぁそれは冗談で戦争世代ってオレの見える範囲では全体的に今の左翼連中を嫌いそうなイメージなんだがなんで左翼は老人ばっかなん? その子どもの世代なの?
オレの50の父親が左翼とまでは行かないがリベラル気取りのカスだからそれなら納得できる
>>40
>左翼は老人ばっかなん?
>その子どもの世代なの?
そうだよ。
団塊世代ももう70歳だぜ?
うちの祖父さん、小さい頃に大阪の空襲で独りぼっちになって、毎日食べ物を探して街を徘徊し、ドラム缶に溜まった煤混じりの水を吐きながらすすって生き長らえたって言ってた。
飲み水が確保できないから、吐き出すとわかっててもすするのをやめられなかったみたい。
何とか生き抜いて勉強して電電公社に入て、大阪万博の通信技師のまとめ役の一人としてがんばったって言ってたなぁ。
十年ぐらい前、癌の闘病生活に疲れて川から身投げして死んじゃった。
最後までニコニコしてた。
位の高い爺ちゃんは部下に嫌がらせしまくったら飯に盛られたらしい 倒れたお陰で死なずに帰ってこれたみたい
原爆が落ちた時ひいじいちゃんの妹が呉にいて 朝窓から外を見てたらものすごい空気圧というか衝撃を感じて何だろう?と思ったらしい
そんなに離れてても爆風?が来たんだからそりゃものすごかったんだろうなあと子供の頃思ってたな
うちの爺さんは乗る予定だった艦が沈んで延期となり そのまま終戦を迎えたそうな。 友達の爺さんは米軍の捕虜となりコーラ飲み放題タバコ吸い放題で 捕虜軍vs米軍野球大会出場という鬼畜な扱いを受けたそうな。
南雲機動艦隊所属だったが船の不調でミッドウェーには出航できず 無線で伝わる圧倒的な危機感に声が出なかったと
ばーちゃんが空襲で妹と手を繋いで逃げてる時に近くに爆弾が落ちて吹っ飛ばされたそうだ 気を失って目が覚めたら妹の腕だけ残った
そのせいでばーちゃんは小さな子供と手を繋げない
ビルマで機関銃の連射に遭ったが爺の前と後ろの兵士は亡くなって爺だけが右腕撃たれただけで助かった ちな中尉
前にもどっかのスレでうpったが、満州で爺ちゃんが使ってた捕虜尋問用の例文集
お前が本当のことを言うならば、私はお前を殺さない
兵士になって何年になる
お前が聞こえない風をしてると鉄砲で撃つぞ
偉いさん「お前明日から広島配属な」→友達の爺ちゃんバックれる→翌日原爆投下 って話は聞いたことある
熱が下がらないのでシナから送り返されて 陸軍病院に入院してた祖父ちゃん 実は37度代が平熱という体質でした
同じ病院に二回も玉砕を生き残った 落合さんという人がいて 本当は正気だがキチガイを装っていて 上官のバナナを食べたり やきうのボールを変な方向に投げたりしていたとか
正気だとバレたらまた激戦地に送られるのな
腹へって腹へって近所の子供達と罠を仕掛けてウサギを獲ったものの 皮を剥いだところで食えなかった
あと「パーパーマーマーピカドンハングリーハングリー」
父方の祖父母家族が昭和19年まで現北チョンの安州市に住んでて 祖父は石炭鉱業の責任者やってた これは安州市の隣の新義州の日本人街
戦後も、平成初期まで、どんなルートから来てたのか知らんが 「祖父のおかけで、何不自由のない生活を今でもひっそり続けられている、 感謝します」という文面で毎年、年賀状が届いてた
今も手元にあるが身元バレするのでうpはせん だが、こんな律儀なのはこんな律儀なのは1万人に一人の割合 父方の祖母の口癖は「朝鮮人を見たら犯罪者と思え!」だったw
母方の祖父母が昭和18年まで住んでた満州の奉天市
日本人街と現地人の街は分かれていて、小学校の通学路に設置されてたゴミ箱に 殺された日本人の赤ちゃんの遺体が捨てられてたのを2回見たと言ってた 夜中に馬賊の襲撃が日本人街、支那人街の両方に多かったらしい
はっきり言って外地に金掛けすぎだったんじゃないのか、当時の日本政府 石橋湛山は第一次大戦にも参加するな、南樺太も満州も放棄して 対英米貿易一本に絞れば、日本経済は身の丈に合ったものになると主張して 袋叩きにあったそうだが、あながち合ってる部分もあったのではないか?
ああ、>>59の年賀状は日本語とハングルの両方で書かれてる
>>59>>66
すげー
>>59
犯罪者と思え!はウチのジーチャンもよく言ってたな 日中戦争開戦すぐに招集されて直ぐに脚撃たれて帰ってきたらしいがw
夏休みの課題でジーチャンに話聞くとヒートアップして過激な物言いになるので 当時は苦手だったが、今では間違いではなかったんだなと思う そんなジーチャンの娘(カーチャン)はこの道ン年の韓流ババァだ
あの世でジーチャンどう思うだろか
>>59
母方の祖父は「あいつらは涙を出さずに泣く」と言ってて幼心に【我慢強いんだなぁ】と思っていたが今思うと嘘泣きが上手いという事だったんだと思う
爺さん、ソ連にとっ捕まって全然帰れないでやんの 中央アジアで働かされた後は奴隷として北朝鮮に送られて病死 とっくに戦争終わってんのにな
誰も墓参りできてないわ
近所の爺さんは元日本軍特殊部隊の人間で、アメリカ本土上陸&破壊工作作戦に選ばれたエリートだったらしい
その訓練中に終戦を迎えたんだが、91か92歳のはずなんだがこないだ畑を手押し耕運機使って耕してた
こういうやつで結構機械が暴れるから制御するのに力がいるんだが、エリート部隊に選ばれた人間のフィジカルモンスターぶりにたまげた
>>61
呉鎮守府第101特別陸戦隊のこと?
うちのじいちゃんアメリカ兵に銃で撃たれたけどちょうど巻いていたタオルを貫通したようで助かったといってた
タオル巻いてなかったら死んでたみたい いいじいちゃんだった
爺さんが国内で訓練中に終戦迎えたって言ってたな 機関銃を撃った話とかたまにしてくれた
戦時中に東條英機の一族が疎開に来るほどの家で育った祖母が 4人のジジババで唯一の生き残りというね
じいちゃんは中国だかロシアだか満州だかの近くで終戦を迎えて帰って来たって言ってた ロシアの毛皮の帽子を大切にしてたわ
ばあちゃんはパラオにいて、よく空襲が来る度に走って逃げてたって言ってた ガジュマルの木に隠れて助かったらしい 果物が美味しかったって言ってた 帰りの船で、別の船が沈んだりしたとか
ひいじいちゃんがロシアで捕虜になってた話を聞いた 中学?だかでロシア語専攻してたおかげでめっちゃ贔屓してもらったらしい
おいしいパンを毎日食わせてもらったとか あと朝鮮人のことすっげぇ嫌ってた、理由は聞いてないけど
昔、受け持った食道癌の爺さんは、徴兵でニューギニア島に派遣されて、食う物がなくて、蛆がわいた物も食ったと言ってたなあ。
靴がボロボロなのに新しい靴も至急されないまま ラバウルのジャングルを歩かされたらしい 爺ちゃんの足の指は全部爪がなかったわ
他にも色々聞いたな
俺以外には気難しくって怒りっぽい人だったけど この時期によくやってる戦争を振り返る番組は いつも泣きながら見ていたわ
90の爺さんは終戦があと1週間遅かったら特殊潜航挺で出撃だったらしい・・・。
本当かどうかわからんけど、ばあちゃん飛行機の機銃で掃射されたって言ってたな パイロットの顔まではっきり見えたって
途中で子供とわかったらしく、急に掃射止んだとか
国語教師だったけど日本語強制で朝鮮近代文学を破壊した日本人はノーベル文学賞 もらう資格なんてないって言ってた
>>76
朝鮮に近代文学なんてあったんだ!? 中国の文人とかは知ってるけど 朝鮮にまともな文化人がいたってのに驚いた
広島の郊外にすんでたばーちゃんは毎日隣の家の人から荷車を借りて広島の中心地に、木材をとりに行ってたけど 8月6日だけなんか隣の人が荷車貸してくれなくて、広島の中心地にいけなかったんだって。 家からピカドンみたってさ
それと曾祖父が南満州鉄道の役員(たぶん関東軍とも関係ある)だったから祖父は満州生まれで、1943年辺りに曾祖父が「ヤバイ露助が攻めてくるぞ!!!」と突然言い出したから内地に戻ってきたんだってさ。
日ソ中立条約があるのに親父はなにいってるんだ、って思ったらしいけど 帰ってきてなかったら危うく抑留されてたわって話してた
そんでそのじーちゃんも終戦があとちょっと遅かったら特攻隊にいってるところだったんだと。なんかうちの家族ギリギリなところで生き延びてる人ばっかや
じいさんが満州居たとき鉄道襲撃してきた八路軍のゴミを日本刀で切り殺して軍から勲章貰ったわ 一族の誇りです
祖父が満州生まれとかって奴結構おるんやな 満州鉄道とか旧家出身者や軍事関係者で占められたみたいだけど。
俺の祖父も満州の新京生まれで、なんか誇りにしてたわ 当時新京は東京より全然きれいで近代的で豊かだったって
零戦の整備兵だった
とある夏に盲腸になったのだが呉の病院がいっぱいてま汽車で島根県の病院に移されたとさ その数日後に広島に原爆投下
あと聞いたのは爺さんは呉から郡山に行く途中に焼け野原となった東京駅に立ち寄ったとか そこらを歩いてる陸軍の兵隊が携行していた水筒が竹筒で爺さんは鉄の水筒 竹筒の水筒を見てこれはもう日本は勝てないと悟ったそうな
うちの爺さんは海軍の通信兵で結局終戦まで前線には出なかったそうな
飛龍の風防はゴムがなくてコンニャクのりでボディにくっつけていた
どうしてこんな惨状でアメリカと戦争しようと思ったのだろうか &飛龍は高評価だがそれはカタログスペックの話で、実際は上に書いたように粗悪品質で散々だった
という祖父(当時中学生)談
>>89
朝日「鬼畜米英!腰抜け東條、勝てる戦を何故やらぬ」
>>94
朝日は左翼の皮をかぶって安倍政権を批判しているけど根っからの右翼なんだよなあ
>>100
日米を戦わせるようにした ソ連の手先って事だよ
>>100
というか朝日は実は極右大アジア主義者のあつまりで、左翼のふりしてアメリカ叩いて大陸ラブなのかもしれんな
>>89
ABCD包囲網だろ
そのままだと1年で燃料なくなって、無茶な条件出されても戦争すらできなくなってたんだから
川に落ちたゼロ戦を見て、ほとんど木造だったとか 本当なのかな
おじいちゃん広島の田舎に住んでて原爆が落ちた後に被害者の人達を救護するために爆心地にいって救護活動してたらしい で、40代前半で身体中ガンだらけで俺が生まれる前に早死にした
当時は放射能汚染なんて誰も知らなかったしな
館山でよく間違えて零戦撃ち落としてたらしい
うちの爺様は徴兵されて終戦直前まで国内(宮城)で訓練をうけていたそうだ。 その後硫黄島へ派遣される予定だったが、残務処理で訓練所に残された。 直後に硫黄島で攻防戦が始まり、その後はお察しの通り・・・ 偶然残らなければ今の自分は存在しないという現実。
むかしは徹子の部屋でけっこう聞けたけどな 母親が機銃掃射で撃ち殺されたとか、本人が撃たれたとか なんか正義ヅラしてるけけど、アメ公民間人殺しまくり
シベリアかどこかに連れて行かれそうになって、基地外のふりしたって言ってたな それでも、ソ連でこき使われたみたいで、シチューとかコーンスープをロスケの食べ物って絶対食べなかった
爺さん、南方に行ってたらしいけど、イモ掘りとヤシの実採ってた話が多かったな。まあ、薬もなかった所でマラリアからよく生還したもんだ
もう肺がんで死んじまったが 耳と首筋の弾痕を笑いながら見せてくれた
中国で結構滅茶苦茶なことやってたらしい 恨まれても仕方ないと言ってた
遊びに行って帰ってきたら戦争終わってた と、父親が言っていた
「食べるもの困ったよ、道端の草も食べたな、あの草何だっけ?」 「はしりどころ」
というやりとりを親戚がしていた
朝鮮人は信用ならんと 朝鮮半島とロシアに残留孤児が極端にいない理由も
>>118
中国に残留孤児が多いってことは 少なくとも満州人は優しかったってことか
>>118
樺太にはそのまま残らざる得なかった人はいる その後現地にいた朝鮮人と結婚してそのまま定住した人しってる
爺ちゃんが、職場の窓から二二六事件見てたと言ってたな 詳しいことはよく聞いとらんけど
おれのばあちゃんは徴用でなく志願で広島の被服工場で軍服縫ってたらしい
ばあちゃんは兵隊に気を使うのが嫌で嫌で仕方なくて母親が大病だと嘘ついて田舎に帰ったんだって、志願だったから大目に見てくれたらしい 田舎に帰った2日後に原爆が落ちた
南国で船がやられただかで海に投げ捨てられたが、敵に見付かりたくなくて泳いで逃げたそう サメに喰われないように皆ふんどし伸ばして、でかい魚に見せかけて泳いだとか言ってたわ
うちの曾祖父さんは大陸から帰ってくる時乗ってる船がアメリカの潜水艦に撃沈された ボートで脱出した後漂着したのが沖縄でそのまま沖縄戦に参加
爺さんが徴兵逃れに醤油を一升飲んだくらいか
仕事で知り合ったおばあさんから聞いた話。
「子供の頃に空襲があった。初めは遠くの方で火が上がり、親たちはその火を消す為に出ていった。そのうちものすごい数のB29が飛来しあたり一面火の海になった。先天的に足に障害があり歩けない妹を抱え、火の中をただただ逃げた。
身体にヤケドを負ったが、姉妹とも生き延びる事が出来た。ただ、両親は帰ってこなかった。家も焼けて失った。行くあてなどなく、家の焼け跡に戻り妹の世話をしながら生きた。足の悪い妹の面倒を見るのはもう自分しか居ないんだと覚悟を決め、口では言えない様々な事をして生きてきた。
焼け野原に空襲前に近所だった人達がぽつりぽつりと戻ってきて、ご近所さん同士で助け合っての生活が始まった。しかし、一番仲良くしていた人が住んでいた立地の良い土地には朝鮮の人が勝手に住み着いていて、一番仲良くしていた人が戻ってきた時に揉め事になったが一番仲良くしていた人はすぐに居なくなった。殺されたんだと思う。その朝鮮の人から様々な暴力を受けたが、妹を守るために我慢して一度も逆らわなかった。
妹の世話をするため結婚をせず、今まで姉妹2人だけで生きて来た。もうすぐお迎えが来るが、妹を守り切ったと両親に報告出来るようこの命が尽きるまでやり通します。」
大伯父がボルネオと南支那だったか 戦没戦士
東京からど田舎に疎開した祖母は畑仕事の帰りに機銃掃射に出くわしたがとっさに伏せて無事だった 疎開前か後か解らないけど戦時中食べ物に困ったことは無かったと言ってた
ばあちゃんが嫁いだ時に旦那とその兄弟(兄か弟か忘れた)が徴兵されて戦争行ったんだが 終戦後帰ってきたのが兄弟の方だけだったから旦那戦死したと思い込んでその兄弟と再婚して子供までこさえた(それが俺の親父)ら
数年後その旦那が帰ってきてすげー修羅場だったらしい
なんも知らん俺の母ちゃんがある日家に背の高いオサレなイケメン紳士のじいさん訪ねてきて誰だ?と思ってばあちゃんに聞いたら何にも語らないから怪しいとにらんで親戚の集まりで聞き込みした結果その紳士が元旦那だったんだと
母ちゃん曰く親父の父親(元旦那の兄弟のほう)がチンチクリンハゲだったからばあちゃん勿体ないことしたんだねぇって笑ってた
俺の生まれるずっと前にそのじいさん死んでて全然知らんから何の感慨もないけど戦後も色々大変なんだなぁと思いました
じいちゃん曰く
戦後にアメリカに占領されずっと動きを注目してたけど 5~6年たって思ったより酷い占領をしなかったことで
「ひょっとして日本って戦争に負けて良かったのかも」
って思ったらしい
ガタルカタル?ってとこに行って、しばらくずっとそこで頑張ってたら発見されて、 開口一番偉い人に「すまなかった!」って謝られたって。
本当は捨て駒にするつもりだったって言われたってよく自慢げに話してたな
焼夷弾が降ってきてて必死に逃げたようで周り死人だらけだったそうな
死んだばあちゃんより
うちの爺ちゃんは中国で砲兵隊の伍長だったらしい。 しかし、馬で指揮してる最中穴に落ちて負傷して野戦病院で婆さんと知り合って傷病兵帰国して結婚。 運が良かったのかなw
それなりに長生きしたし優しい良い爺ちゃん婆ちゃんだった。
海軍で、海に爆弾打つと魚が浮いてきて、いっぱい魚取れる。 その魚を取って食べるんじゃ 刺身食放題じゃ。との事
それ聞いて、小学生低学年で、刺身大好きな僕は、戦争も良いな、海軍良いなと思いました。
父方の祖父が帝国海軍の少年兵だったが実戦投入直前で終戦 多数の上官が特攻に志願した為訓練が遅れた事が原因だったそうだ
ウチの爺ちゃんは死んだふりの話を良くしてくれた 今思うと自分がしてたんだと思う
親父が戦時中釣りに出掛けてる時、低空でグラマンが飛んで来てパイロットと目があったそうだ。 その時親父は国民服じゃなくランニングシャツ着てて明らか民間人だから撃たれなかったんだろう言ってた。
空襲で火災になったら工場の駆けつけて消化活動をするように 絶対に逃げるな、逃げた奴は許さん。 その言葉通りに火の中を駆け抜けて工場まで言ったら誰もいなかった・・・
後で工場の人に聞いたら軍人が一番先に逃げたってみんな呆れたそうだ。
三八式小銃から九九式小銃に変わったら どの銃も全然命中しないのでみんなが新式小銃に ガッカリしたと言ってた。
榴弾砲は結果が見えないからつまらないけど 加農砲は家でもトラックでもなんでも壊せるから面白いぞ・・ と言うのが砲兵だったじっちゃんの口癖だった。
戦後、闇市に食料調達のお使いに行った帰りの汽車で憲兵の取り締まりに遭って荷物を確認されて持っていたお米その他が見つかってしまったけど、当時、子供で女の子だったからか、憲兵さんは見て見ぬふりをして見逃してくれたって話が印象に残ってる。
>>204
当時は闇市も警察官に黙認されてたが、警察官本人は立場上利用できないって人が多くて、一般人より飢えてたって聞いた
>>206
言われてみれば、取り締まる立場の方達は、 そういう状況だったんでしょうね。 辛い話ですね。
小学校の目の前にあった葬儀屋のジイさんのハナシ。竜の乗組員だったらしいが、爆弾も弾も尽きて最後に空母サラトガに体当たりしたそうだ。なんで陸軍機が空母に体当たりしたのかは知らん。
でも爆発も火災も起きず、ひとまず海に飛び込んで泳いで帰ってきたそうな。
ウチのオヤジが消防団やってて、ジイさんの話を聞いてきたそうだ。 それだけでもビックリだが、同じ様な出来事が3回あったんだと。死なない運命ってのはやっぱりあるのかね。
俺の婆ちゃんは長崎で被爆したが当時看護婦だったから遺体を運ぶ係だったが地獄絵図だったらしいw
空襲の死体処理に動員されて、その後死体が平気になった
爺さんに聞いた話
満州に駐留していた頃 昼間は普通に挨拶するような民間人が夜にはゲリラになって襲って来たりするんだって。
何だかんだでじーちゃんばーちゃんは皆戦争の時代を必死に(もしくはわりと楽観的に)生き延びたんだよな 今の日本人に出来るだろうか
わりと面白がってできそう
お前らのおじいさんの士官率は異常すぎるw
この2chスレまとめへの反応
それじゃ俺も置いていくか
知っている作家さんが子供の頃の話
クラスメイトが朝鮮人をイジメていて、クラス委員長だった彼女(作家さん自身)は担任の先生に告げ口をしたんだとか
すると先生、「同じ帝国臣民の朝鮮人をバカにするとは何事か!」とゲンコツ処分を下したらしい。
曾祖父の話
ビルマの方に行って、脚に弾が貫通した事がきっかけで帰って来られたらしい。
話聞いた時は何とも思ってなかったけど、最近ビルマの方で行われた戦闘を調べてみた。インパールだった。よく帰って来られたと思う。
昔通ってた模型屋のお爺ちゃんの話
そのお爺ちゃん、昔陸軍のパイロットだったらしい。飛行機はやっぱり陸軍の方が優秀だったんだとか。
お爺ちゃんは隼くらいしか乗らせて貰えなかったらしいが、百式司偵はとっても速くてパイロット中での憧れだったらしい
そのお爺ちゃんのお兄さんは特攻隊に入って、出撃し亡くなったとも聞いた。