見てるよー
父さんを亡くしてしまった俺がいるせいで、事件が終息したにもかかわらず、大人たちは素直に安堵の表情を浮かべられないようだった。
灯の母は保護された子供の様子を見に行くと言って、事件現場へ走って行った。
俺の父が守った子供を、俺に教えるためかもしれない。
俺に事件の顛末を説明してくれた大柄な男の人は、どういった表情をすればいいのかわからないといった様子で、唇を引き結んでいた。
灯は依然として俺の手を強く握ってくれている。
その繋いだ手をはなせば、俺は精神的にも肉体的にも寄る辺がなく崩れ落ちてしまうのは確かだった。
灯の目尻には大粒の涙が浮かんでいる。朝露にも似たその涙は、太陽の残滓を余すことなく取り込んで、それに優しさを加えて照り返していた。
やっぱり、この子は泣き虫だ。赤の他人のために泣ける人に、俺は初めて出会った。
こんな状況で、しかも泣き顔を、綺麗だなと思ってしまうのは駄目なんだろうな。
灯の父はなにも言わず、もう一度俺の頭を撫でた。
漏れ出てしまう後悔を必死に隠そうとする表情は強かだったが、やっぱり、そんな表情をされても悲しくなるだけだ。
灯の父は悪くない、むしろ感謝さえしている。悪いのはあの通り魔ただ一人じゃないか。
俺は道徳的にも倫理的にも間違っているのを承知で、子供らしく純粋に、強く思った。
どうすれば、あの殺人者を殺せるのだろう。
俺達は出口の門へ向かう列の最後尾にはじかれていた。
混乱がおさまって、人々は安心した面持ちをしだす。他人のことを考えられるくらいの心の余裕は出て来たのか、走る人は消えた。
彼らのその安心に、俺は筋違いと知っていながらも、憎しみめいた視線を向けてしまった。
駄目だ違うと、ふるふると頭を横に振った。
「憎んでいいんだよ」
先程のキャップの男が、笑いを堪えきれないのか口元を掌で覆い、俺に声をかけた。
距離は近かった。俺が目を伏せている間に、筋違いな恨みを人々に向けている間に、ここまで近寄られていた。大きな声ではなかった。囁き声ともとれる。
けれども、囁き声のような、という形容表現ではあの男の声に含まれている狂気を修飾できない。
「きっと辛いだろう、これから先、お父さんを亡くして生きていくのは」
笑顔だった。この人、壊れている。俺が現実から目を背けている間に、こんなにも狂気に近寄られていた。
俺の中にあった狂気や恨み、憎しみを敏感に感じ取ったのだ。
「おい、なんて言葉をかけてるんだよ」
灯の父は男を睨み付けた。優しい人の怒り顔というのは、怒りを向けられていない周囲にさえも底冷えに似た感覚に陥らせる。
俺は、ただその光景を見ていた。
「だから、殺してやろうと思うんだ」
こうなることを知っていた気がする。
子供を対象とした通り魔。俺と灯は手を繋いでいた。
狙われているのは俺だ。
ここで手を離さなければ、灯を巻き込むことになる。
手を振り解こうとするが、灯は手を離さない。一月の寒空には薄い雲がかかっていた。太陽は先程よりも柔らかな光で俺達を照らしている。
ナイフ、のようなものが銀色の鈍い光を先端に宿らせて、俺の眼前に現れた。それが俺に突き刺さるまで、あと数秒もないだろう。
最後に、灯の顔を見ておこう。俺は諦めたのだ。
せめて、この脆くて美しい彼女の泣き顔を、最後の景色にしよう。
おそらく、生涯で一度も聞くことがないだろう重い音とともに、血しぶきがあがる。
灯は鮮血に塗れていた。黒く、しなやかな長髪の所々に血が飛び散る。白い肌も、白を基調とした服装にも、同様、もしくはそれ以上に。
灯の目尻の光は血に蓋をされてしまった。俺はこんなに苦しそうな灯を最後の景色にしたかったんじゃない。
でもここで終わりか。
死は、痛みの無いものなのかもしれない。手が強く握られる。俺は生きているのか?
ではこの血はいったい、誰の。
「パパ……」
灯の父が、俺の前で倒れている。腹の辺りを刺されていた。生臭さを伴って、心臓が脈打つように一定のリズムで血が噴き出している。
さっきの鮮血は、わざと灯に血を浴びせるように、ナイフを酷い角度で引き抜いたんだ。
灯の父は歯を食いしばって、身体を起こそうとする。乱れた呼吸と吐血。顔には汗が滲んでいた。
「うっ……、ひっぐ、ううぅ、パパ」
灯は泣いている。灯の父は生命の一滴を使って、優しく答える。
「早く逃げるんだ。頼む、石原くん」
俺は繋いだ手を強引に引き寄せる。灯は動かない。お父さん、お父さん、と唇を動かすだけだ。
くそう、引っ張らなきゃ。連れて逃げなければ。でなければ、俺は本当に。
この状況、惨事を目の当たりにして動ける人は周りにいなかった。先程、事件の内容を話してくれた大柄な男も呆然と立ち尽くしている。
「あーあ、さらに可哀想になるじゃないか」
あの男は血が垂れるナイフを弄び、けらけらと笑う。俺はもう一度灯の手を引く。強引に走り出す。
灯は転んでしまった。立ち上がろうとしない。このままでは殺される。手を強く引く。立ってくれと叫ぶ。あの男はゆっくりと近づいてくる。
俺はまた、泣くだけなのか?
灯の父は立ち上がった。生命の最後の一滴を振り絞って、灯を庇う。
鮮血は青空に届くことなく、ぽたりぽたりとナイフと体の間で滴り落ちた。
灯の父はあの男の手をナイフごと掴んでいた。あの男はナイフを引き抜こうと、ぐりぐりと内臓をかき回す。痛みに喘ぎながらも決して、灯の父は手を離さなかった。
大柄な男が、第二の通り魔を取り押さえる。すると、続々と大人が駆け寄ってきた。
灯の母は血だらけの夫を見ると、がくりと膝から崩れ落ちた。放心した様子で、涙を流しもせず、声を殺してぶつぶつと何かを言っている。
灯の父は救急隊員に運ばれていく。俺と灯は立ち上がることもできなくて、ただ呆然と見送った。
父から引きはがされた灯は、体操座りをして泣き続けていた。
俺は灯に手を伸ばす。なにもできなかった俺は、彼女の手を握る権利もない。
けれども、灯が俺にしてくれたように、血だらけの手を強く握った。今、俺にできることはこれだけだ。
薄い雲がかかる優しい青空で、太陽は虹色の輪を纏っている――ハロ現象だ。
灯もそれに気づいたようで、泣き腫らした顔で空を見上げる。繊細な睫毛は大粒の涙を抱えきれなくて、頬にはらりと零してしまった。灯はその涙を拭わない。ただ恋をしたように、ハロ現象に目を奪われていた。
どうして俺達はこう、どうしようもなく嫌なときに限って、どうしようもなく美しい景色ばかりを目にするんだろう。
俺は父さんが死んでしまったと知った時よりも、もっと強く思った。いや、願った、という言葉の方が正しい。
灯と、灯の家族を傷つけてしまったのは俺のあの思いのせいだ。憎しみや恨み、殺したいという黒く醜い感情。それが第二の通り魔を俺に呼び寄せた原因だ。
だから俺は、こんなに悲しくてやりきれなくて、忘れたくなるような記憶をずっと憶えていく。その上で、憎まずに恨まずに、殺したいと思わずに、黒い感情に逃げることなく、誰かをその分の力で幸せにしないといけない。
俺にそんな権利も資格もないけれど、せめて、俺が傷つけてしまった、灯だけは。
目を瞑って、太陽が纏っている虹色の輪に祈る。どうしようもなく綺麗な現象に祈る。
どうか、辛い記憶も悲しい記憶も、全部憶えたままでいさせてください。
そしてなにより、灯を――。
目を開けると、灯は何かに祈るように、指と指を絡み合わせていた。
俺と灯の手は、いつ離れてしまったのだろう。そして、灯は目を開く。
「なんで私、泣いてるんだっけ」
あのあと俺を保護した警察官は、俺の身の上に同情し、様々なことを教えてくれた。
またいろいろ教えて欲しければ、電話かけてきて。と、電話番号が書かれている紙切れをわたしてくれた。
俺は灯や灯の家族の状況を知るために、何度か電話をした。
灯の父は死んでしまって、そのせいで灯の母は精神をいたく病んでしまったらしい。そして灯は、不思議な記憶障害に陥っているというのだ。
ある範囲だけが切り取られたように、記憶がなくなっている。
そしてその範囲は、父との記憶だ。単身赴任していること以外をきれいさっぱり忘れてしまっている。もちろん、あの事件のことも。
会いに行かなきゃいけないと思った。好きだから会いに行く、と言う資格は俺にはない。
ただ償う資格はあるはずだ。灯を幸せにすることが俺の償いであって願いだから。
辛いけれど、忘れてしまっては駄目なんだ。あんなにも優しいお父さんの記憶を失くして生きていても、それは灯にとって幸せじゃない。
お前が灯の幸せを決めるべきじゃない、独善的で傲慢なことをするな、と言われても仕方がない。
それでも、あの涙を目にしたら誰もが俺と同じことを思うはずだ。
警察官から言伝で聞いた住所を俺は完全に記憶していた。
警察官と話したことも、そしてそのとき何を考えていたかということも。
そして、あの通り魔事件のとき、父さんと話したことも、灯の家族と話したことも、温度や喧騒、鳥居の僅かにくすんだ朱色だって覚えている。
もちろん、灯が繋いでくれた手の暖かさや、その時の思いだって全部、取りこぼすことなく覚えている。
あの現象には不思議な力があるらしい。だったら、もう一つの願いも叶えてくれよ。
灯の家のインターフォンを押す。数十秒の後、女の人が出て来た。
灯の母なのか……?
人が変わってしまっていた。
瞳に光はなく、痩せこけた頬と、一気に増えた皺が世界の全てに関心を失くしてしまった、世捨て人を思わせる。
「灯、さんは?」
「……さぁ。もう、私たちの前に現れないでくれるかしら、疲れているの」
俺は追い返された。
俺は一人の人間を壊してしまったんだ。結局、灯に会うことはできなかった。
「あれから何年も聞き込み調査をした。でも誰も灯のことを知らないんだ。名前すら知らないのは、どうしたっておかしいだろ? 中学に上がった時、俺は他校の生徒と積極的に交流を持った。灯を探すために。
やる気のない俺からは想像できないだろうが、人脈確保のためにバスケ部に入ったんだ。リア充カーストを演じてお前の名前を他校の奴らに訊きまくった。断じてストーカーじゃない。まぁ結局全部失敗したけど」
「それで、ようやく会えたのが屋上なんだ。灯さん、高校入ってから他人の記憶消し過ぎだ。せっかく、奇跡的に同じ高校になったのに、一年も会えなかった」
「そして一週間前。俺も罪を償うとはいえ、ちょっと気分転換が必要だった。そのとき、ハロ現象を思い出したんだよ。
屋上ならもしかしてまた見えるんじゃないか、と思って、立ち入り禁止の扉を開けた。ハロ現象は見えないけれど、なんだか青空が名残惜しくて昼飯を箸でつついてた。
そしたら、焼きそばパン食いかけの灯が俺をからかってきたんだ」
「拍子抜けだった。神様の采配ってのはどうかしてるとしか思えない」
「灯はどうやら俺のことを忘れているらしく、名前を聞いてきた。言ってもピンとこない様子だったから、俺は前から考えていた非現実的な仮説を、非現実的だと思えなくなった」
「灯が名前を当てられただけで何分も泣いているのを見て、俺は確信した。俺と真逆のことを、灯はあの現象に願ったんだ。
さっきの灯の話になぞらえて言えば、灯の記憶の中の、灯に関するお父さんとの記憶を消したんだ」
彼の話を聞いて、私の中から消えてしまっていた記憶が、フラッシュバックする。
あの河川公園は、お父さんと一緒に自転車に乗る練習をした場所だ。
帰りにアイスを買ってもらって、自転車を押して帰ったんだ。単身赴任しているところから帰ってこれる貴重な休みなのに、私は色んな我儘に付き合わせちゃった。
思い出があふれてくる。
私がお父さんのことをなにも知らないくせに「いい人」だと疑わなかった理由が、ようやく確かな形を持った。
通り魔事件のことを思い出す。お父さんは、最期まで優しい人だったんだ。
私の生きる理由は二つ。
お父さんのため、そしていつの日かみた、ハロ現象をもう一度見るため。
お父さんを悲しませないため、という根拠の無い理由の正体は、あの事件だったんだ。
死ななくて良かった、どんなに惨めでも生きていてよかった。
暖かい気持ちに包まれる。お父さんが死んじゃったのに、それでも幸せだと思える私は変なのかな。
でも、記憶からなくなっても、ずっとお父さんのこと好きだったよ。私は記憶を消せる能力と一緒に生きていく中で、思い出が生きる理由なんだ、ってわかった。
詭弁かもしれないけれど、私はお父さんのことを記憶から消さないでいたら、たぶんおかしくなっちゃってた。
死んじゃった悲しみが強すぎて、お父さんと過ごした楽しい記憶が、辛い記憶に変わっちゃったと思う。
記憶を消せたから、私はお父さんとの思い出を、汚すことなく綺麗なまま心の奥底にしまっておけた。
そしてハロ現象――私はずっとハロ現象に恋をしていた。
夏の打ち上げ花火よりも、夜空に輝く星よりも、私はハロ現象に焦がれていた。
きっとハロ現象への思いは、石原君への恋だったんだ。
あのとき、私たちは手を握りあってただけだったけど、私にはそれだけで恋に落ちるきっかけには充分だった。
どん底で手を握り合える人しか、私は好きになれそうにない。私はまた泣いてしまった。もう、ほんとに私は泣き虫だ。嬉しくても悲しくても、涙を流さずにはいられない。
石原君はそんな私の手を、あの時のように握りしめる。
「俺は灯に、あのときのことを謝りたかったんだ。俺と関わらなければ、灯と灯の母さんは今も灯の父さんと幸せに過ごすことができた。
俺にできることは謝ることだけのくせに、独善的に、灯に幸せになってほしいと願った。
でも、灯の幸せにはお父さんの記憶が不可欠だった。
あの忌まわしい事件の記憶も含めて思い出すこと、それは灯にとって辛いことに決まっているのに、そうしないと、本当の幸せはないと、迷いなく思ってる自分がいた。
勝手で傲慢で、本当にどうしようもない。俺は自分に都合の悪いことを、贖罪を盾に見ないようにしてたんだ」
すうと息を吸って吐く。涙は拭わない。
「石原くん、今までありがとね。私はおかしいのかな、辛いことをいっぱい聞いたはずなのに、心があったかくて、そのせいで涙が出てるの」
「石原くん、一つ聞いていい?」
「おう」
「なんで、私と会ったらすぐ、それを言わなかったの?」
「それはだな……」
空いている右の手で、後ろ髪を掻く。石原くんが困ったときによくする仕草だ。
「私と、一週間も一緒にご飯食べてくれたり、授業もさぼったりしてくれたのは、なんで?」
「それは……」
「償いじゃ、ないよね」
「石原くんは、私と逆のくせに、全部忘れないはずなのに、大切な部分を忘れてるよ」
私は恋の形を知っている。ただ一つの思いで、ハロ現象を毎日探していたのだ。
毎日毎日、飽きることなくずっと。
石原くんもそうだと思う。石原くんは様々な思いを抱えていたと主張したいだろうけれど、私にしてみれば、たった一つの思いに他ならない。
それで毎日私を探していたのだ。毎日毎日、飽きることなくずっと。
私たちは似ている。
「私は石原くんの記憶を消そうと思ってたよ、でもなかなかできなくて、ここまでぐずぐず来ちゃったの。この関係が壊れて欲しくなくて、初めて私の名前を憶えてくれた人に忘れて欲しくなくて」
「俺も似た感じだ。言ってしまえば、この距離の俺達は終わると思ってた。だから、こう、な……」
「そういうのが、恋なんだよ」
「石原くんの思いはきっと、償いなんかじゃない。ただ、好きな人に幸せになって欲しいだけだよ。恋なんて、独善さと傲慢さと自分勝手の、塊でしょう?」
「そんな綺麗な言葉で包んでいいのかね」
「たまには自分に優しくしなさい。償いの理由も思いも全部まとめて好きにいれちゃいなさい」
石原君は不服そうだ。真面目な人なんだと思う。
ここまで人生を私に賭けてくれた人が、真面目じゃないわけないよね。そんな人にかける言葉はもうない。
私はぎゅっと、石原くんの手を強く握る。
すると、石原くんも握り返してきた。
私たちには今言える愛の言葉よりも、思い出の中にある懐かしい振る舞いのほうがしっくりくるらしい。
夏色の風が吹き付けて、停滞した空気を浚っていく。その行く末が知りたくて、私は目を空に向けた。青空で、太陽が虹色の輪を纏っている。
あぁ、ハロ現象だ。私がずっとずっと恋焦がれていたものだ。
流れ落ちそうになる涙を笑顔で隠す。横を向くと、石原くんが静かに鼻を啜っていた。
私は石原くんの手をもう一度、強く握る。石原くんは指をもぞもぞと動かし、指と指を絡み合わせた。
恋人つなぎだ。
私はまた、嬉しくて泣いてしまった。
どうも1です 今まで見てくれた方々ありがとうございました。
落ちが相当にあれですね、でもこれでお話は終わりです。
いろいろ見直してなろうとかカクヨムにも挙げてみようとうっすら考えています
三月二日一人といいます。
http://sangatuhutuka.blog.fc2.com/
面白かった
おつ
おもしろかった
この2chスレまとめへの反応
なっげ
はいはい
ポエム。