切ないコピペ貼ってクレメンス
大学生で禿げてる俺は一度だけ合コンに誘われた。
イケメングループからメンバーが足りないから頼む!と言われたので仕方なしにだった。
けれど、だんだんわくわくしてきて服を買いに行ったりモテ術の本を読んだりした。
親に「俺今日合コンだから遅くなるよ!」というと親は「あんまり飲んじゃだめだよ」とうれしそうだった。
当日、予定の場所に行くと誰もいない。イケメンに電話すると「もうみんな店にいるから早く来い」という遅れて登場も悪くない、と思いながら店に入ると地獄が待っていた。
「うっそ~!!ほんとに禿げてる!!」「な?な?俺が言ったとおりだろ?」「うわ~キモイwww」
俺は何が起こったのかわからなかったが、どうやら最初からネタにするつもりで呼んだようだった。
そのうちイケメンの一人が俺にヘッドロックをかけ、「ほらこの頭見ろよ!すげー!!」とやってきたので俺は手でそれを振り払った。すると今度は「何本気できれてんだよ」「ハゲって最低」「空気嫁よ」俺はもう参加する気力も切れる気力もなく店を出た。誰も引き止めなかった。
家に向かって歩いていると雨が降ってきてびしょぬれになった
もう情けなくて情けなくて声もあげず泣いてた。
家に入ると母親に向かって怒鳴った「お前のせいで禿げたんだぞ!!」
母親も泣いた。俺も泣いた。
1988年、水頭症を患った長男への対応を巡り球団と対立し、シーズン途中で解雇された。
契約では家族の疾病の際には球団が医療費を負担することになっていたが、球団は保険加入を怠っており、多額の医療費を負担することを恐れたための解雇だった。
この経緯については、退団後に発売された自伝『バースの日記』でも述べられている。
なお、このバース退団後の7月19日、当時の阪神球団代表だった古谷真吾が東京都内のホテルで飛び降り自殺する事件が起き、バースの退団をめぐるトラブルで球団とバースの板挟みになったのではないかと報じられた。
この一件は、後に球団側が示談金を払ったことで解決した。
>>4
ほんともったいない…
802 :おさかなくわえた名無しさん :06/03/10(金) 17:32:24 ID:s2RHsW2o
上にコレクションについての話がありましたけど私は夫のコレクションを捨ててしまって後悔した立場でした 鉄道模型でしたけど
かなり古い模型がまさに大量(線路も敷いてて一部屋使っていた)という感じでした
結婚2年目ぐらいから「こんなにあるんだから売り払ってよ」と夫に言い続けたのですが毎回全然行動してくれずに言葉を濁す夫にキレてしまい留守中に業者を呼んで引き取ってもらえるものは引き取ってもらいました
帰ってきた夫は「売り払ったお金は好きにしていい」「今まで迷惑かけててごめん」と謝ってくれました
残っていた模型も全部処分してくれたのですごく嬉しかったです
でもその後夫は蔵書をはじめ自分のもの全てを捨て始めてしまいました
会社で着るスーツとワイシャツや下着以外は服すらまともに持たなくなり
今では夫のものは全部含めても衣装ケース二つに納まるだけになってしまって
あまりにも行きすぎていて心配になり色々なものを買っていいと言うのですが夫は服などの消耗品以外絶対に買わなくなってしまいかえって私が苦しくなってしまいました
これだけ夫のものがないと夫がふらっといなくなってしまいそうですごく恐いのです
こういう場合ってどうしたらいいんでしょう
会社が棚卸しで振り替え休日があったので会社の若い連中、男女3:3で海にドライブに行った
私は途中で腹が減ると思ったので人数分×3個のおはぎを、前の晩からこしらえた。「気のきく人」と思われて好感度アップ間違い無しと確信して寝不足ながらウキウキ気分で出発。
ひそかに思いを寄せるN男さんもお洒落な服で張り切っている。
10時ごろ、ブサイクな同僚♂(29才喪男)が「ソフトクリームがたべたい」と言い出したので私は「お、おはぎならありますけど・・」とやや控えめに18個の色とりどりのおはぎ(あん・青海苔・きなこ)を紙袋からとり出した。
一瞬「しーん」となって、ブサイクな同僚♂が「喪女さんが握ったの?うわwwおばあちゃんみたいwww」と言った。
他の女が「ちゃんと洗った手で作ったの?今の季節雑菌は危ないよ、ほら、ここやばくない?」と言った。
爆笑が起こった。18個のおはぎは誰の口にも入らなかった。
私はほぼ半泣き状態で、おはぎをしまった。
人づてに聞いた話だけど、N男さんも「ちょっとあれは食べらんないw」と言っていたらしい。
779 名前:/名無しさん[1-30].jpg[sage] 投稿日:2013/01/23(水) 02:12:29.46 ID:2YHSa/xW0
体育祭の打ち上げで実行委員会で酒飲んで停学くらってたなぁ。
俺も実行委員だったけどなぜか呼ばれてなくて助かった。
あとで先生に誘惑に負けなかったお前は偉い、と言われて泣きそうになった。
168 名前:名無しさん@4周年[] 投稿日:2004/01/17 10:43:00 ID:X7vkUwRR
いよいよ明日がセンター試験本番ですよ!
むっちゃドキドキしてきた…。
受験生の皆さん、今日くらいは勉強は休んで明日に備えますよね?
169 名前:名無しさん@4周年[] 投稿日:04/01/17 10:57 ID:zUQVRYG7
>>168
今日と明日だよ
来年こそはがんばってよ
シーズン開幕からこんなことになるなんて
173 名前:168[] 投稿日:04/01/17 11:10 ID:X7vkUwRR
受験要綱を見た。
どうやら今日と明日、両方とも試験があるらしい…。
親に話したら泣かれた。怒られた。殴られた。 学校の先生に電話したら怒鳴られた。今すぐに学校に来いって言われた。
今から学校に行ってきます……もうだめぽですか?
ある病室に2人の末期ガンの患者が入院していた。 一人は窓側のベッド、もう一人はドア側のベッド。
2人とも寝たきりの状態だったが、窓際のベッドの男はドア側のベッドの男に窓の外の様子を話してあげていた。
「今日は雲一つない青空だ。」
「桜の花がさいたよ。」
「ツバメが巣を作ったんだ。」
そんな会話のおかげで死を間近に控えながらも2人は穏やかに過ごしていた。
ある晩、窓際のベッドの男の様態が急変した。自分でナースコールも出来ないようだ。
ドア側の男はナースコールに手を伸ばした。が、ボタンを押す手をとめた。
「もしあいつが死んだら、自分が窓からの景色を直接見れる・・・」
どうせお互い先のない命、少しでも安らかな時をすごしたいと思ったドア側のベッドの男は、自分は眠っていたということにして、窓側のベッドの男を見殺しにした。 窓側のベッドの男はそのまま死亡した。
晴れて窓側のベッドに移動したドア側のベッドの男が窓の外に見たのは、打ちっ放しのコンクリートの壁だった。
>>9
切ない
【定期】明日の朝起きてレスが900超えになっててワイを驚かすスレ
1 :名無し:2017/01/24(火)21:42:47 ID:PaQ(主) ×
みんなワイウォ驚かせてくれや~
2 :名無し :2017/01/25(水)06:53:11 ID:eEZ(主) ×
かなC
おれが高校生の頃、一人で王将でメシ食ってたら、おれの横を明らかに障害者とおもわれる者がメシ食っていた。
そいつは、手をぶらぶらしながら、ウーウー言いながら食っていた。
あまりに特徴があったので、おれはその障害者の真似をして食うことにした
まねをして、手をぶらぶらしながらウーウー言いながら食っていた。
すると突然、後ろのテ-ブルから正義感の強そうなおっさんが現れて
「障害者の人を馬鹿にするな!!」
って叫びながら、障害者の方を殴った
以前は悪かったな。
ここに来るつもりはなかったが、相談したものとして結果を。
まあ結論から言うと、 彼女が産みたいとか言ってるから別れた。 俺はガキを飼って束縛されるなんて嫌だからな。
んで今は二股じゃなくて、一人だけど真剣に付き合ってる。
コンドームも付けてるし。
色々ありがとな。
貴様らキモいだけの引きこもりニートかと思ってたけど案外良いとこあんじゃん。
見直したよ。
俺から褒めてもらえるなんて良かったな。
最後にこの言葉を送る。
guud rack【グッドラック】
俺の好きな言葉だ。
22: 名無しさん@おーぷん 2016/01/03(日)11:43:42 ID:zj5
876 名前:大人の名無しさん 投稿日: 2007/10/02(火) 20:48:56 ID: 8wuSN2nj
どうしても誰かに聞いて欲しい話がある。
実は俺、恥ずかしながら稼ぎの悪い安サラリーマンなんだけど、デイトナが欲しくて少ない小遣いからヘソクリなどしている。自宅のPCの壁紙にもデイトナの写真を使っているほど惚れ込んでいる。
時計なんかに全く興味の無い女房は、時計の写真なんて見て楽しいの?と馬鹿にし続けていた。まあ、女房というのはこんなものだろう。
そして一昨日、俺の誕生日だったんだが、女房が何年かぶりに「誕生日プレゼント」を俺に呉れた。新婚以来の珍事だった。包みを開けてみると中身は腕時計。クロノグラフ・・・デイトナ?
文字盤の銘は「ELGIN」
女房は俺に「欲しかったんでしょ」と微笑む。涙が出そうになった。
もうデイトナなんかいらない。こいつを動かなくなるまで毎日使ってやろう。他のどんな腕時計より大切にしようと誓ったね。
15 名前: 可愛い奥様 投稿日: 2007/08/21(金) 00:09:51 ID:QiGULDW0O
夫が時計欲しがってる
PCの壁紙にして毎日見てる
調べてみたら、約100万円のロレックス
なんか貯金してるみたい
絶対買わせたくない、どうしよう?
16 名前: 可愛い奥様 [sage] 投稿日: 2007/08/21(金) 00:10:06 ID:qYb0vG9+0
>>15
「ELGIN」っての買って与えろ 似たのが3万であるから
>>129
草
俺の母さんは、生まれつき両腕が不自由だった。なので料理は基本的に父が作っていた。
ただ、遠足などで弁当がいる時は、母さんが頑張って作ってくれていた。
でも、小学校6年の時の遠足で、見た目が悪い母さんの弁当を見られるのが嫌で、とうとう「弁当はコンビニで買っていくから、この弁当はいらない!!」と言ってしまった。
母さんはそんな馬鹿な俺に、ただ、うまく作れなくてごめんねとしか言わなかった。
時は過ぎ、小・中は給食だったのだが、高校になってからは給食はないのでいつも昼は購買のパンですませていた。
しかし、高校2年になったある日、母さんが弁当を作ると言い出した。それは遠足の時に作ってくれたものとは、見た目も味も段違いに良くなっていた。
不自由な手で、一生懸命作ってくれたのだ。と、思ったのもつかの間。 肺炎で入院したかと思うとぽっくり逝ってしまった。
弁当を作り始めてから3ヶ月しか経たない内に。
母さんが死んだ後、親父から聞いたのだが、どうやら母さんは俺の為に、定食屋をやっている知り合いの所に一年間料理を習いに行っていたらしい。
そして後日、その定食屋に行って見た。
定食屋の人と俺は直接、関わりは無いけれど、優しそうな人だった。そして母がよく弁当に入れていたメニュー、ハンバーグ。それの定食を頼んだ。
そして、それを口にしたとたん、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。たった3ヶ月しか食べられなかったけど、たしかに母さんのハンバーグの味にそっくりなのだ。
腕がまともに動かせないのに、頑張って作ってくれた、あのハンバーグの味。形は少し不細工だったけど、とても美味しかった、あの、ハンバーグの味。
アカン見飽きた奴ばっかりなのに泣きたくなってきた
「OKINAWAに行かない?」
いきなり母が電話で聞いてきた。 当時、大学三年生で就活で大変な頃だった。
「忙しいから駄目」と言ったのだが母はなかなか諦めない。
「どうしても駄目?」「今大事な時期だから。就職決まったらね」
「そう・・・」母は残念そうに電話を切った。 急になんだろうと思ったが気にしないでおいた。
それから半年後に母が死んだ。癌だった。 医者からは余命半年と言われてたらしい。
医者や親戚には息子が今大事な時期で、心配するから連絡しないでくれと念を押していたらしい。
父母俺と三人家族で中学の頃、父が交通事故で死に、パートをして大学まで行かせてくれた母。
OKINAWAに行きたいというのは今まで俺のためだけに生きてきた母の最初で最後のワガママだった。
叔母から母が病院で最後まで持っていた小学生の頃の自分の絵日記を渡された。パラパラとめくると写真が挟んであるページがあった。
絵日記には
「今日はOKINAWAに遊びにきた。海がきれいで雲がきれいですごく楽しい。ずっと遊んでいたら旅館に帰ってから全身がやけてむちゃくちゃ痛かった。」
・・・というような事が書いてあった。すっかり忘れていた記憶を思い出す事が出来た。
自分は大きくなったらお金を貯めて父母をOKINAWAに連れていってあげる。というようなことをこの旅行の後、言ったと思う。
母はそれをずっと覚えていたのだ。
そして挟んである写真には自分を真ん中に砂浜での三人が楽しそうに映っていた。
自分は母が電話をしてきた時、どうして母の唯一のワガママを聞いてやれなかったのか。
もう恩返しする事が出来ない・・・ 涙がぶわっと溢れてきて止められなかった。
京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」
などと言うと、母は「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。
片桐被告が「すまんな」と謝ると、母は「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
>>20
その後、息子も母親を追うように自殺している
>>20
涙出てきたわ
いつも踏み切りの所で電車を見てる池沼がいたんだけど その親に腕をガッチリ捕まれてて、電車が来ると 「でんちゃでんちゃでんちゃっちゃー!!」とか いいながら電車に向かっていく勢いなんだけど、親が 「危ないから、危ないから」といいながら必死に捕まえてるんだよ、
そんな事が毎日朝8時からよる10時 くらいまで続いてたんだ。
だけどある日その踏み切りに言ったら 電車が踏み切りを過ぎた所で停車してて回りをブルーシートで囲まれてたんだ、何があったのか周りの人に聞いたらどうやら池沼が電車に突っ込んでバラバラになったらしいんだ
一部始終見ていた人が今まで腕を捕まえて放さないようにしていた池沼の親がその時は電車が来た時にその腕を放して「ごべんねぇー!!!!」と いいながらその場に泣き崩れたらしい。
まぁ7年間毎日14時間も池沼と一緒に 踏み切りにいればそうしたくもなるわと思って納得した。
中学時代の昼休み
俺「…ポツーン」
女子数人「ジャンケンポン!キャー負けたー!」
ジャンケンで負けたらしき女子が近付いてくる
負けた女子「えー本当に言うのー?」
取り巻き「キャハハ早く言いなよー。せーの。」
負けた女子「友達になってくれませんか?」
俺「???」
負けた女子「もーヤダー!サイテー!」
取り巻き「キャハハ○○(俺の名前)君喜んでるよ。もっかいちゃんと言ってあげなよっ」
負けた女子「マジキモいんだけどー」
俺「・・・。」
あるシーズンオフにヒルマン・新庄・小笠原が中学生(不治の病)の見舞いに行ったえらい野球にくわしい子で、病室は野球関係の本でいっぱいだ
「あのね、このピッチャーはねコントロール悪いから初球は見ないとダメなの」 と選手の写真を指差して話す少年
やたら難しい顔してうなずく小笠原
「ふえーそうなんだ?」と(多分素で)感心する新庄
ヒルマン「素晴らしい。これからもハムの007として調査・報告してくれ。頼んだぞ」
そしてヒルマンが、スコアブックを渡して 「君を特別スコアラーに任命する。気がついた弱点を記録して、また報告して欲しい」
そのあとの談話
「いや~勉強になりました。野球って奥が深いね」
少しもイヤミにならないのが新庄の新庄たる所以である。
「あの子に夢を与えられるように・・・・全力でプレーします」
言葉を搾り出す小笠原。赤い目が万感の思いを語る。
そしてヒルマン
「今日は日本ハムにとって有意義な日。将来の名スカウトを発見した」
中日ドラゴンズの立浪和義選手。 母子家庭に育ち、子供の頃から苦労掛けっぱなしの親に孝行するのは 当たり前の話であるが、彼はポケットマネーで孤児達を球場へ招待し 毎年、クリスマスのは孤児院へ駆けつけて、一人一人に自筆のメッセージカードを 添えてプレゼント。
正月には餅つきとお年玉を振る舞い、野球を教えている。
子供の誕生日には必ず電話と手紙で御祝いのメッセージを送り続けているのだ。 これは彼が20歳である3年目のシーズンから欠かさず続けていることなのだ。
【最後はパパ、ホームラン打ってくるよ】
ある阪神の選手が引退を決意
引退試合には一打席だけ立たせてもらえることになった
愛する娘に「パパ頑張ってくるよ」と言うと まだ幼いその娘は「パパはどうしていつもホームラン打たないの? 最後にパパのホームランが見たいよ」と言った
その選手は所謂二番打者タイプでバントや流し打ちなど繋ぐバッティングを期待されていた選手だった
だからその娘は、ほとんど父親のホームランを見たことがなかった
それに気付いたその選手は「分かった。じゃあ最後はパパ、ホームラン打ってくるよ」 と娘に言い、試合に臨んだ
そして試合中、ランナー一塁の場面でその選手に打席が回ってきた
いつもより大きくバットを構える
相手投手も、ど真ん中にボールを投げる
そしてその選手は…………バットを構え、送りバントをした。
ランナーは二塁に進み、犠打の記録がつく
その選手は笑顔でヘルメットを掲げ、甲子園球場の声援に応えた 最後の最後まで自分のスタイルを貫いたその姿に、ファンも割れんばかりの拍手を返した
そして試合終了後、娘のもとによると、 その娘は約束を守らなかった父親に文句を言うこともなく 涙を溜めながら、笑顔でたった一言。
「パパ、お疲れ様、大好き」
怒涛の野球コピペ連発に草
俺今学生なんだよ
で、春休みに工場でバイトしてたんだけどさ、同じ職場に30すぎくらいのおっさんがいるのよ
制服的に恐らく正社員じゃなくバイトで、年下の上司に怒られて、休憩時間に1人寂しくお茶を飲む姿がすごく哀しいくってさ
あ、この人は幸せにはなれないんだ、って
で、その人を見てたら自分の未来図を見てるような気がしてきてもうやりきれなくなったわ
>>60
大丈夫やろ学生だし
7才の娘の喘息がひどかったので、都会から田舎に引っ越すことに。ほどなく娘の発作はなくなり、家族3人ゆったりと過ごしていました。ところが、幸せな日々も束の間、夫が事故で亡くなってしまったんです。
仕事を探すためにも都会に戻るべきかと悩んでいたある日、娘が「お父さんに手紙を出したい」と言いだしました。そこで、天国にいる夫へ手紙を書き、風船に結んで空に飛ばすことにしました。
娘の手紙には「お父さんへ元気ですか? 天国はどんなところですか? わたしもお母さんも、すごくかなしいです。いい子になるから、帰ってきてください。 R美」と書いてありました。娘は、風船が見えなくなるまで青空を眺めていました。返事が来ないことはわかっていただろうと思います。
ところが、それから1週間ほどが経ったころ、差出人の書かれていない娘宛ての手紙が、ポストに入っていました。開封すると、丁寧な字で、こう書かれていました。
「R美へ お父さんは元気です。天国は楽しいところだよ。神様との決まりごとで帰れませんが、お母さんの言うことをよく聞いて、いい子でいてください。ずっと見守っているからね。お父さん」
娘は喜んで、手紙を部屋の壁に飾っていました。筆跡が違いますし、もちろん夫ではありません。風船を拾った人が善意で返事をくださったのだと思いますが、住所を書いたわけではないので、不思議に思っていました。
後日、風船を拾ってくれたのが隣の町のかただとわかりました。娘の名前を頼りに、多くのかたが協力して、この家を探してくださったそうです。その話を聞いた私は、都会に戻ることをやめました。温かい人たちが集うこの土地で、娘を育てていこうと決意しました。
>>85
切ないけどいい話やな
2: 名無しさん@おーぷん 2016/01/03(日)11:30:00 ID:aTY
6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて 窓際に置いておいたから、早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの 便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてあった。
「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」
夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって 少しメソメソしてしちゃったよw
昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と 「ガンがなおるおくすり」 と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。
朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げてた。
早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って 「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」 っていって、夫に薬を飲ませた。
夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、 「ああ! 良かった~。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、 動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」……っていうと 夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして 「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。
私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように 鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。
夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。
その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が 「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」と言ったので、 つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。
お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。
ある日、叔母さんのうちに一本の電話がかかってきた。
「こちら警察のものですが、お宅の息子さんが事故を起して通行人に怪我をさせてしまいまして、 被害者の方から示談で良いとのことで、至急こちらの口座に振 り込んでいただきたいのです。ただいま、息子さんに代わりますね・・・」
叔母さんはすぐにそれが最近流行っているオレオレ詐欺だということに気が付いた。 なぜなら、息子は5年前に事故で亡くなっているからだ。
「母さん、俺だよ、事故起しちゃってさぁ、大変だよ。すぐに示談金振り込んでくれよ」
叔母さんはその声を聞いてハッとした。 死んだ息子の声とそっくりだったからだ。 まるで死んだ息子が蘇り、そこにいるような気がした。
叔母さんは電話を切ることが出来ず、 しばらく息子にそっくりなその電話の声に聞き入っていた。 そして再び警察官と名乗る男に代わった。
「そういうわけなので、どうかお母さん、示談金、お願いしますね・・・」
再び息子と名乗る男に代わった。
「母さん、ゴメンよ、助けてくれ」
そこで叔母さんはやっと真実を話した。
「あのね、私の息子は5年前に死んでるの。」
電話の声がパタリと止まった。気まずい空気が流れた。 しばらくの沈黙の後、電話が切られる前におばさんは言った。
「ちょっと待って、あなたの声、息子とそっくりなの。 電話切る前に、もう一言だけ、声を聞かせてもらえないかしら。」
しばらくして、電話の主はこう言い、電話を切った。
「母さん」
中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。 いばっていた先輩が3年になったとたん、無視されたこともありました。 突然のことで、わけはわかりませんでした。でも、さかなの世界と似ていました。
たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。 せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。 けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。
すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。 助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。 いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、 なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。 中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。
ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。 でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。 学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。
話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、 だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。 ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。
大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。 外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。
広い空の下、広い海へ出てみましょう。
東京海洋大客員助教授・さかなクン
戦後間もない頃の話、昭和30年頃
専業農家だったカーチャンが小学生だった頃まで、牛を飼ってたそうだ その牛に朝夕、畑の草を食わせに行くのがカーチャンの仕事の一つで毎日散歩のようにやってた 小さい頃に家にやってきた牛はひどく懐いて、 何も言わずともカーチャンについてくるようになって本当に仲良しになった
しかし、数年経ってカーチャンが中学生になったある日・・・ カーチャンが学校から帰ると、家の前にトラックが カーチャンがバーチャンに「これ、なんのくるま?」と聞くと「・・・牛、連れて行くんよ」
カーチャンはそれで全てを悟って、泣き叫んで暴れて嫌がった それを見た牛はポロポロと大粒の涙を零しだした だけれど、牛は、自分がどうなるかを悟ったかのように、動かず暴れたりせず、立ったまま泣くだけ 牛はトラックに乗せられてポロポロ涙流したままカーチャンをずっと見てた
そこでバーチャンが「あぁ、あれはあんたを妹のように思ってたんねぇ」 カーチャンが正気に戻ったとき、業者もバーチャンもカーチャンも牛もみんな泣いてたそうな 業者が言うにはそこまでの牛と娘はめったにいないとか
そういう経験を経たカーチャンは今でも動物を愛するバーチャンになっている 人間は他者の死の上で生きてることを忘れちゃいけない、と教えてくれた時に言われた話のひとつ
73 名前:名無しさん@HOME 投稿日:02/10/10 00:32
俺の妹は11歳下。おむつも替えたし、子供みたいな感じで兄弟とは思えなかったけど やつが高校入った頃から少しずつ会話の量が増え始めた。
生来勘のいい女だからか、通じ合う部分がかなりあって、 恥ずかしながら俺から相談する事もあったくらい。
やつの幼稚園の頃の口癖は「お兄ちゃんと結婚する!」
大学入ってからは両親死んだ事もあって「お兄ちゃんが結婚するまでは安心できない」
今日、妹の結婚式。 バージンロードを腕組んで歩いて来た。
「ありがとう」は兄ちゃんの台詞だ、バカ。
すげー綺麗だったぞ、翠。幸せになれよな。
そのときの部長はすっごく冷たくて、いつもインテリ独特のオーラを張り巡らせてる人だった。 飲みに誘っても来ることは無いし、忘年会なんかでも一人で淡々と飲むようなタイプで、 良く怒られていたこともあって俺はすごく苦手だった。
ある日のこと、部長の解雇を伝える社内メールが全員に届いた。
あのむかつく部長が居なくなる!!心の中でガッツポーズしたのは俺だけじゃなかったはずだ。
それから1週間後、部長の最後の出勤日。 退社のセレモニーが終わるとみんなそそくさと帰って行ったが 部長と俺だけは居残って仕事を片付けていた。
送別会の開催も自ら断った部長を苦々しく思っていると、珍しく専務から呼び出された。
しぶしぶ専務室に行くと、課長と専務が待ち構えていた。
俺はそこで始めて課長から「部長解雇の真相」を聞いた。
原因は俺だった。俺のミスの責任を全て部長がかぶってくれたらしい。
話を聞いてたまらなくなった俺は急いで部署に戻ったが、部長の姿はすでに無かった。
ふと自分の机の上を見ると、封の開いた買い置きのタバコ。すでに一本無くなってる。
横に添えられたメモにはこう書いてあった。
「これぐらいはいただいても良いはずだ」
俺にとっては無くなったその一本が、思い出の一本です。
181 名前:水先案名無い人 投稿日:03/06/01(日) 10:50 ID:Ba+Whe5Z
俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、 「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。
貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの 母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。
どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。 これでようやく遊べると思ったんだけど、ニチイのゲーム売り場の 前まで来て買うのやめた。そのかわりに小3の妹にアシックスの ジャージを買ってやった。いままで俺のお下がりを折って着ていたから。
母にはハンドクリーム買ってやった。いっつも手が荒れてたから。
去年俺は結婚したんだけど、結婚式前日に母に大事そうに錆びた ハンドクリームの缶を見せられた。
泣いたね、、。初めて言ったよ「生んでくれてありがとう」って。
765 名前:おさかなくわえた名無しさん:03/06/11 16:01 ID:t5F6W/NV
GW, 大学進学のため、上京して一人暮らしをしている俺のアパートに 母が来た。 相変わらず口うるさく、イロイロ言うのが、ウザくて いる間中、小さい口げんか状態だった。
いよいよ帰る日、駅のホームで見送ることになって・・・
電車のドアが閉まろうとしてる時、「あんたにイロイロ買ってやろうと ヘソクリ持ってきたんよ。でも使わんかった。 お母さん、電車に乗ったら もうお金使うことないし、これ、持っていきな。」 と、財布をポンと投げてくれた。
俺が、返答を考えている間にドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き始めた。
笑顔で手を振る母・・・
財布には万札より千円札の方が多い計9万円
家庭板の父子家庭スレより
212 名前:名無しさん@HOME 投稿日:2003/06/17(火) 00:02
息子が1日遅れの父の日プレゼントを保育園から持って帰ってきた。 涙が出た。
213 名前:名無しさん@HOME 投稿日:2003/06/17(火) 00:31
俺も貰った。
わかってても凄く嬉しい。いつもは「タバコやめて」って言ってるのに 三人の子が父の日のプレゼントだとタバコ一個づつ買って置いてくれてあった。
三つともバラバラの銘柄で俺のすわないやつ(w
不思議だったけど近所のタバコの自販機見て理由がわかったよ。
自分の背が届く範囲でしか選べなかったんだ・・・・・・ありがとう
723 名前:水先案名無い人 sage 投稿日:04/12/30(木) 14:00:48 ID:ZMJosVUx
19 :名前:2:04/12/22 23:55:12
三人兄弟の末っ子だったオレ。オレが消防だった時に兄貴が高3だった。 車好きの兄貴は自動車会社に就職したくて大学に行きたかったみたいけど、 頭は決してよく無かったので私立の大学にしかいける大学がなった。兄貴は親父に大学に行きたいと言ったが、 親父は『家には金が無い。残りの兄弟もいるし、我慢してくれ。すまん。』と言った。
影でその話を聞いていた俺は、それまで自分の家が貧乏だと思ってはなかったので驚いた。
話を承知した兄貴は、肩を揺らして泣いていた。親父も自分が不甲斐無いのか泣いていた。
その後、兄貴は高卒で就職した。数年後、同様に二番目の兄貴も高卒で就職した。
そして、俺が高3になった時、俺も大学に行きたいと思っていた。
自分でもいうのはなんだが、学校での成績はかなりいいほうだった。
しかし、親兄弟には迷惑はかけれないと進学は諦めていた。迷惑をかけないように、 『オレも高校卒業したら就職するから。』って家族にいつも言っていた。
そんな時、2人の兄貴が『お前は安心して好きな道を歩め。大学に行きたいなら、はっきり言え。オレがどうにかしてやる。 お前は頭もいいし、オレの出来なかった夢を叶えてくれ。』と言ってくれた。嬉しかった。大声で泣いた。
数年後、オレは無事に大学を卒業、兄貴の夢でありオレの夢であった自動車会社に就職することができた。
兄貴は喜んでくれてはいたが、さぞ悔しかっただろうと思う。申し訳ないことをしたと思っている。
面と向かって言うのは照れるので、ここで言わせてもらいたい。
兄貴、ありがとう。いつか、最高の車を造るからな。
134 :M7.74 :04/11/11 23:57:14 ID:xtl17gRB
阪神・淡路大地震のあと、阪急電車の復旧を沿線の人々は待ち望んでいた。うちもその一軒。
夜を徹して行われる作業、騒音や振動をこらえてくださいと、電鉄会社の人が頭を下げに来た。
「何を言ってるんだ?我慢するに決まってるじゃないか。それよりも一刻も早い復旧を。」
うちも含めて、沿線の人々はみなそう言って、電鉄会社の人を励ました。
阪急は国の補助も受けず、少しづつ復旧・部分開業していった。 そして最後に残された西宮北口~夙川間の高架部分の再開によって、 ついに神戸本線は全通した。
再開の日に、もちろん漏れも乗りに行った。神戸で逝った友のもとへ行くために。 運転台の後ろは人だかりだった。みな静かに鉄道の再開の喜びをかみ締めているようすだった。
夙川を渡るそのとき、川の土手に近所の幼稚園の園児たちが立ち並んでいるのが目に飛び込んできた。
手書きの横断幕を持って・・・。
「あ り が と う は ん き ゅ う で ん し ゃ」
運転手が普段ならしないはずのそこで敬礼をした。 そして大きく「出発進行!」と声を上げた。 その声は涙声になっていた。漏れも泣けた。
ときよ、上越新幹線よ、もまいを待っている人々がいる。
復興のために、そして人と人をつなぐために、よみがえれ、不死鳥のごとく。
幼稚園の頃、同じ年で 近所にフィリピン人の男の子がいたんだ。
話すのは日本語だったしよく一緒に遊んだ。
その子は入園してなくて不思議で、なんで幼稚園来ないんだ?と何度か聞いた。ニコッとして「僕は行かなくていいんだ」としか言わないんだよな。
今思えば色々事情があったんだろう。近所には他に子供もいなくて、いつも俺が幼稚園から帰るのを外でポツンと待ってる。
たまに知らない奴に、フィリピン人だ~とかからかわれてた。俺はその度「やめろ~」って叫んでたけど、何故からかわれるのか意味がわからなかった。
その子の母親は昼も夜も働きづめで、うちの母チャンがご飯食べに呼びなって、よくうちで一緒に飯食ってた。母親が迎えに来た時玄関でいきなり俺を抱きしめて「ありがと、いつも遊んでくれてかばってくれてありがと」って泣いた事があった。
驚いて母チャン見たら母チャンも泣いてる。
もじもじとしてるしかなかった。 小学校に上がる前にどこかへ引っ越してしまったが、引っ越す日に俺が気にいってた車のオモチャをあげて又遊ぼうと言った。転んでもからかわれても泣かなかった奴が初めて泣いた。
俺も大泣きしてしまった。
元気でいるか?
元気でいて欲しい。
ばあちゃんのぼけは日に日に進行してゆき、次第に家族の顔もわからなくなった。 お袋のことは変わらず母ちゃんと呼んだが、それすらも自分の母親と思い込んでいるらしかった。 漏れと親父は、ばあちゃんと顔を合わせるたびに違う名前で呼ばれた。
あるとき漏れがお茶を運んでいくと、ばあちゃんは漏れに 駐在さんご苦労様です、とお礼を言って話しはじめた。
「オラがちにも孫がいるんですけんど、病気したって見舞一つ来ねえですよ… 昔はばあちゃん、ばあちゃん、てよくなついてたのにねえ…」
そう言ってばあちゃんが枕の下から取り出した巾着袋には お年玉袋の余りとハガキが一枚入っていて、よく見てみるとそれは 漏れが幼稚園の年少のとき敬老の日にばあちゃんに出したもので、 「ばあちゃんいつまでもげんきでね」なんてヘタクソな字で書いてあったものだから、 漏れはなんだか悔しくて悔しくて、部屋を出た後メチャクチャに泣いた。
ある大学でこんな授業があったという。
「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」
学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、 いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」
「それは違う」と教授は言った。
「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」
君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。 ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、 君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう。
ある日新聞に折り込まれた広告を見ると近所に出来た電気屋さんの開店セールのチラシが入っていた。
そのチラシには「開店記念、ホットプレートで作った焼きそばを無料配布」の文字が!焼きそばが大好きだった彼は、 タダで焼きそばか食べられるのかとワクワクしながら弟を一緒に電気屋の前まで行ったが電気屋の近くまで来た時に 目にした光景は閑散とした客が誰一人としていない店頭で 一生懸命呼び込みをしながら焼きそばを小さなホットプレートで 焼きつづける電気店主夫婦・・・
子供の目にもあまりにも寂しい雰囲気だったので「焼きそば下さい」と店の前まで行く勇気が湧かず 弟と一緒に遠巻きに電気屋を見て、そのままそそくさと帰宅したそうです。
それから月日は経ち電気屋は無くなってしまったそうです。
昨日夢を見た。
嫁の「起きろー!」と言う馬鹿でかい声で目が覚める。
テーブルには娘がもう嫁が作った朝ご飯を食べている。
嫁が「はいよっ」と眠気覚ましのコーヒーを入れてくれる。
ちょっと味が濃い。でもものすごくうまい。俺の好きな味をよく知ってる。会社に行く支度して嫁にネクタイ締めてもらって「はいっ、いってらっしゃい^^」と背中をポンと叩かれ「いってきまーす」と玄関を開けたとこで娘の「起きろー!」という声で夢から覚めた。
娘「お父さんニヤニヤして寝てたよ」
娘「良い夢でも見てた?」
俺「うん。お母さんに久しぶりに会ったよ」
娘が眠気覚ましのコーヒーを入れてくれた。夢と同じ味がした。
遺影の嫁がいつもより笑ってる気がした。
ったら、一番安い料理でも3千円はする高級和食店だった。
悩んだ挙句、顔を真っ赤にしながら正直に「予算が足りないので失礼します」と伝えたら、 店主は状況を察して「ご予算はいかほどでしょう?」と言い返してきた。
顔から火が出そうになりながら「千円では無理ですよね?」と言ったら、 笑顔で「天丼はいかがでしょう?」と勧めてくれて、余った高級食材らしきものを 集めてかき揚げ丼を作ってもらった。
感動して泣きそうになった。
本当の高級店とはこういう店をいうんだなとしみじみ感じた。長文失礼。
私たちは、元々親がおらず養護施設で育ちました。
3つ上の兄は中学を出るとすぐに鳶の住み込みで見習いになって その給料はすべて貯金してました。
そのお金で私は私立の高校、そしてさほど一流でもありませんが 大学へも行けました。
小さな会社ですが就職も決まり、兄への感謝を込めて 温泉へ連れて行きました。
ビールで上機嫌の兄に、「あんちゃんありがとう、 あんちゃんも遊びたかっただろう?」と言うと 「お前憶えてねえんか?『あんちゃん、俺、しあわせになりてえ』って 小6のとき言ったろ?それで決めたんだ、なーんも辛くなかったど お前を『しあわせ』にしてやるのが俺の夢だったかんな」
自分ではそんなこと言ったなんて憶えてません。
思春期には、金髪で人相も悪く、クチャクチャと 音をたてて食事する兄を恥ずかしく思い、 そんな兄に学校へ行かせてもらうことへの 憤りすら感じてました。
その晩は23歳と26歳の兄弟が布団で抱き合って眠りました。
8年前のことですが、ネタじゃないんですよ 本当の話です。
今日珍しく俺は母ちゃんを外食に誘った。 行き先は昔からよく行く馴染みのラーメン屋だった。 俺は味噌大盛り、母ちゃんは味噌並み盛りを頼んだ。 「昔からここ美味しいのよね」って、柄にもなく顔にシワよせて笑ってたんだ。
ラーメンが出来上がると、俺も母ちゃんも夢中で麺をすすってた。 あんまりにも母ちゃんがニコニコしながら食べてるもんだから、 俺もつられて笑っちまったよ。
しばらく経って、ラーメンを食い終わった俺はふと母ちゃんの方を見たんだ。
ラーメンの器に浮かぶチャーシューが一枚、二枚、三枚・・。そのチャーシューを捲ると麺がまだ沢山余ってた。
母ちゃんは俺の方を申し訳なさそうに見て、「ごめんね、母ちゃんもう年だから。ごめんね」と繰り返してた。
「んなもんしゃーねーべ」と言うと、俺は母ちゃんの残したラーメンをすすった。
そういやガキの頃、よく無理して大盛り頼んで、結局食べきれなくて母ちゃんに食ってもらってたっけ。
いつの間にか立場も逆転。あんなに若かった母ちゃんの顔も今じゃシワだらけで、背丈も頭一個分違う。
そのシワの数程今まで散々迷惑掛けたんだろうなって思うと、悔しさと不甲斐なさで涙が出てくる。
母ちゃん、こんな俺を今まで育ててくれてありがとう。
俺、立派な社会人になるわ。
半年ちょい前の俺へ
そっちは午前4時だな。
部活で疲れてぐっすりだと思うが、頑張って起きろ 今から言う事をやってくれ。頼む、お前の為だから。しくじるなよ。
音をたてないようにしろ、気づかれるから。 まず、1階に降りて台所から包丁を持ってこい。 そしてお前のバカ兄貴の部屋の前に行き ドアを開けて部屋に駆け込み一撃でぶった切れ。
バカ兄貴が首を吊ろうとしてる、その柔道の帯で作った輪っかをな。
そうしないとバカ兄貴が首吊って死んじまうぞ。 発見した時の光景と母さんの悲鳴はたぶん一生お前の頭から離れなくなる。
前日まで普通に相談に乗ってもらってた兄貴が次の日には死んでんだぞ
いなくなるんだ
あと兄貴に言ってやれ。 「さんざんアンタをバカにしてきたが、学校じゃ自慢しまくるくらい好きなんだよ。」って
頼む。頼むよ。
頼むからこの文を半年前の俺に送らせてくれよ。 頼むよ。お願いします
「おやすみ。また明日な。」
って言ってたじゃねえか バカ兄貴。
ワイ、泣く
>>135
いやーキツイっす(素)
>>135
悲しい世界
>>135
何回見ても泣きそうになるうみべのおんなのこ思い出した
教授「じゃあちょっと二人か三人でこのことについて話し合って」(ガヤガヤ)
ぼっち「・・・」←最前列の右端に一人で座ってる
教授「・・・君!一番前の君は話しあったのか?」←マイク入ったまま大声で
ぼっち「いえ・・」
教授「君毎回一人だけど授業困らない?」
ぼっち「特には・・・」
教授「え?今話し合ってないけど大丈夫なの?」
ぼっち「いや、あの・・・」
教授「指示したことができなくても問題ないってこと?」
ぼっち「そ、そうではなくて、一人で考えて・・・」
教授「一人じゃ話し合えないでしょ!?2・3人でやれっていっただろ?」
教授「これ試験だったらどうするの君?落ちちゃうよ?」
ぼっち「それならしょうがないです・・・」
教授「ふーん、名前なんて言うの?あと学籍番号」
ぼっち「いや、名前とかは・・」
教授「いやじゃなくて、これ中間の課題にするから成績つける関係で名前分からないと困るの」
ぼっち「もういいっす」(ダッ)←ノートと筆記用具ときもいリュックを小脇に抱えてものすごい速さで退出w
教授「何、どうしたの」
教授「何しに来てたんでしょうね彼は」(ドッ)教室中大爆笑w
ワイ、また泣く
「これ、恋人のカオリ」
初めて彼女をこの家に連れて来られた時、私はガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
私とアキラが同棲し始めたのは6年前の事だ。
高校から一人暮らしを始めるアキラが、寂しいからという理由で昔から仲の良かった私をこのマンションに半ば強制的に連行したのが始まりだった。
「はじめまして、カオリです。」
そう行儀よくお辞儀したカオリは、アキラにはちょっと勿体無い位可愛かった。
顔にも口にも出さなかったが、内心私は複雑だった。 私のほうがアキラを知ってる。笑っているときも落ち込むところも、この女より、よく知ってるのに。
アキラとカオリが付き合いだした馴れ初めは、たったひとつのキスかららしい。 元々大学で仲が良かった二人だが、ある日とうとうアキラの理性がぷっつり切れてキスをした。
これでカオリに万一ほかに好きな人でも居たら一大事というかシャレにもならないが、 強運にもカオリもアキラが好きだったらしい。目出度く両想いになったそうだ。
…たった、キスひとつで変わる関係なら、どんなに良かっただろう。
「な?言ってた通り可愛かったろ、『カオリちゃん』。」
カオリが帰った直後玄関を振り返って、自慢げにアキラがふふんと笑った。 ああ、可愛かったよ、長い間連れ添った私なんかよりあのコを選んだ位なんだから。 …可愛くないと、納得いかない。
「拗ねんなよ、バカ」
よほど態度に出ていたのか、アキラは笑って、いつものように私に軽くキスを落とした。
…キス、たったひとつで、変わる関係だったら、どんなに、良かっただろう。
キスなんて何回もしているが、関係が変わったことなんて、ない。 …なんだかふいに悔しくなって、私はみゃあ、と鳴いてやった。
>>142
ありがとう
>>142
鳥肌たった
なんか機械音痴の母がデジカメを買った。 どうやら嬉しいらしく、はしゃぎながらいろいろと写してた。
何日かしてメモリがいっぱいで写せないらしく 「どうすればいいの?」って聞いてきたが 「忙しいから説明書読め!」とつい怒鳴ってしまった。
さらに「つまらないものばかり写してるからだろ!」とも言ってしまった。
そしたら「・・・ごめんね」と一言。
そんな母が先日亡くなった。
遺品整理してたらデジカメが出てきて、何撮ってたのかなあと中身を見たら 俺の寝顔が写ってた・・・。
涙が止まらなかった。
横浜での話だったと思う
中学生くらいの男の子と母親が信号待ちをしていた
見るからに大切に育てている息子
でもマザコンチックであったり、教育ママ的でもなく、 微笑ましい関係が見ただけで判る、そういう親子
信号待ちをしていた親子に車が突っ込んだ 車は息子だけを轢き、母親は呆然と立ちすくんでいた
周囲の人々が、車の下敷きになった息子を助け出し、救急車を呼び、 辺りは人々が取り囲み騒然とした
息子の腕はちぎれ、足は関節がいくつも出来たように折れ曲がっている その顔は苦痛に歪んでいる 助かるかどうかは判らないが、とりあえず今は生きている
すると母親が突然叫んだ
「殺しましょ、ね、殺しましょ。このまま生きていても苦しいだけだし、
腕もどっかいっちゃったし、足も変だし、殺しちゃいましょうよ、ね、ね、ね!!」
周囲の人々に訴えかける。
救助活動をしていた市民が母親に「お前それでも母親か!」と言っても
「殺しましょ。もう一回車で轢いてよ!」
その後は救急車が来て、どうなったかの顛末は判らない
切ないの嫌いなのに見たくなってしまう
昔、初めてサイト作ったとき、嬉しくて友達や妹に言って回った
検索エンジンからもぼちぼち人がくるようになり、意気揚々とレンタル掲示板をつけた
書き込みしてくれる人いるかな?荒らされたらどうしよう なんて思っていたが、好意的なレスばっかりで嬉しくなった
そのうち荒らしてくるやつが現れたので、それを削除しようと掲示板の管理画面に入った
荒らしてくるやつのIPを見るついでに、好意的なレスをしてくれた人のIPもなんとなく見た
好意的なレスはすべて同じIP しかも俺と同じIP(うちはマンションケーブルで固定IPだった)
そう、妹が自演で盛り上げてくれてたんだ
俺は泣きながら掲示板とサイトを削除した
明らかに彼女だ。彼女の尻から聞こえてきた。間違いない、屁だ。
すると母が「やだあ、お父さん!」とすかさずフォロー!
ナイスだ母さん!俺はハイタッチしそうになったがこらえた。
しかし父は「いや、俺じゃないぞ!本当だって!」
父よ、何故にそこでマジギレするのか?折角いい方向に向いてたのに!アレか?彼女に「屁なんてしないダンディーな父です」とでも言いたいの?バカが!
そうこうしてるうちに俺が焦り狂ってつい「ごめん、お、俺だ!」なんて言ったら、彼女が「す・・・すみません。私でした・・・」と正直に告白してしまった。
俺が彼女をなんとか救おうと悩んでいると、父が「昨日はキムチ食べた?そんな臭いだね」などと笑いながら言い出した。
俺はこの時以上に父がリストラされた理由を実感できた日はない。
658:名無し職人 :2007/06/12(火) 21:58:16 [sage]
俺の高校に生徒に馬鹿にされてたチビデブの物理の教師がいた。
その教師は、本当に馬鹿のひとつ覚えで毎朝校門に一人立って「おはよう」と声を掛けた。
他の教師も「よくやるよ、点数稼ぎ」と、あからさまにその教師を批判してたな。
雨の日も風の日も、ずっと。1年くらいしたら、普通にみんな挨拶するようになったな。
卒業式の日、校長挨拶のあと、その教師が壇上に突然上がってきて
「みんな、卒業おめでとう。
僕は本当にダメな教師で、今までみんなからどう見られていたか知っています。 でも、こんな僕にもみんなに伝えることができた言葉があります。
【おはよう】
この言葉は、社会に出ても胸を張って言える様にして下さい。 毎日を一生懸命に生きている人の【おはよう】は、さわやかで他人の心を和やかにします。 いろいろな苦難や障害にぶち当たっても、顔をあげて、笑顔で【おはよう】と言ってください。
僕が教えた物理の授業は忘れてもいいですから【おはよう】だけは忘れない大人になって下さい」
ヤツは泣いてた。愚直な、ちょっと馬鹿入ったような涙で。
俺はちょっと泣いた。今、ヤツの物理の授業は忘れたが毎日の挨拶は忘れていない
バイト先に彼氏いない歴25年らしい大人しい子がいた。 局の子にお昼おごらされたり、 派遣社員の子から高額なマルチ商法の商品買わされたりしてた。
皆が「アイツはお人好しだから何言っても絶対断らない」と 学生のイジメのようにバカにして嫌な事押し付けたりしていた。
もともとその子を優しくて良い女だと好感を抱いていた上に この子なら断らないかもと思った俺は彼女を休日に食事に誘ってみた。
生まれて初めて女性からOKをもらい、嬉しくて店を色々調べて下準備し、 当日は思いきりお洒落してピカピカに洗った車で迎えに行き、 頑張って話を盛り上げてご飯を御馳走し、家まで送り届けた。
とても楽しくて何度も誘った。彼女も楽しんでくれていると思った。
段々好きになって今度告白しようと決心して食事に誘った時、 「本当はずっと嫌だった。もう誘わないで欲しい」と言われた。
彼女の顔は気の毒になる位必死だった。きっと決死の思いで言ったのだろう。
「ほら~!麻衣、ちゃんと断れるじゃないですか! 今度から嫌な事 頼まれたら、今みたいにビシッと言えよ! 俺、ずっと麻衣が何言っても断れないの、心配したよ!」
と、俺は泣き出しそうなのをこらえて出来るだけ明るく元気に取り繕った。
彼女はとてもホッとしたような顔をして何度も俺にお礼を言った。
俺から好かれている訳じゃない事がわかって、そんなに嬉しかったのかな。
昨日の話です。もう色恋は諦めますた。一生童貞でかまいません。
アメリカのとある地方に野球観戦の大好きな、でも、目の見えない少年がいました。
少年は大リーグ屈指のスラッガーである選手にあこがれています。 少年はその選手へファンレターをつづりました。
「ぼくは、めがみえません。でも、毎日あなたのホームランをたのしみにしています。しゅじゅつをすれば見えるようになるのですが、こわくてたまりません。あなたのようなつよいこころがほしい。ぼくのヒーローへ。」
少年のことがマスコミの目にとまり、二人の対面が実現することになりました。 カメラのフラッシュの中、ヒーローと少年はこう約束します。
今度の試合でホームランを放てば、少年は勇気をもって手術に臨む、と。
そして、その試合、ヒーローによる最後の打席。2ストライク3ボール。 テレビや新聞を見た多くのファンが、スタジアムで固唾をのんで見守り、少年自身も、テレビの中継を祈る思いで聞いています。
ピッチャーが投げた最後のボールは、 大きな空振りとともに、キャッチャーミットに突き刺さりました。
全米から大きなためいきが漏れようとしたその時、 スタジアムの実況が、こう伝えました。
「ホームラン! 月にまで届きそうな、大きな大きなホームランです!」
妹が今年の夏に亡くなったんだけどすごいハイテンションな子だった。
ある時から急に別れ際「アデュー」しか言わなくなったの。
妹らしい可愛いおふざけだなーって思ってたら その後1ヶ月もしないうちに病院で静かに息を引き取ったのさ。
そして昨夜ネットでなんとなくアデューの意味調べた。 フランス語でバイバイの意味だろ。って思ってたら違ったんだよ
「次、いつ会えるか分からない時のあいさつ。長い別れを告げるあいさつ。」
あぁ妹は覚悟してたんだな。ってその時はじめて知って泣いた
4歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、 どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。
ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。
「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」 こっそりと中を読んでみたら、 「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」
と書いてあったそうだ。
旦那は去年、交通事故で他界した。
字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・ 受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。
「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ~」 最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。
娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない
カーチャンの七不思議
夜には疲れた顔してたのに朝には早起きして弁当作っててくれる
夜遅く帰っても他の家族は寝てるのにカーチャンだけ起きてる
俺が疲れてるの何故か把握してて栄養剤出してくれる
俺が逆切れしても困ったように笑ってる
俺が自分で言ったのに忘れてた事をずっと覚えてる
いまだに俺の誕生日祝ってくれる
俺より長生きしてくれない
ベトナム戦争から家に帰る前夜、青年兵士は自宅に電話した。
「明日帰るんだけど、他に行くところがない友達を連れて帰りたいんだ。 家で一緒に住んでもいいかな?」
息子の帰還報告に狂喜した両親は、勿論!と泣きながら答えた。
「でも、一つだけ言っておきたいことがあるんだ。彼は地雷を踏んでね、腕と足を失ってしまったんだよ。でも、僕は彼を家に連れて帰りたいんだ。」
その台詞に、両親は押し黙ってしまった。
「数日ならいいけれど、障害者の世話は大変よ。家にいる間に、そのお友達が住める所を一緒に探しましょう。あなたにも私たちにも自分達の人生があるのだから、そのお友達 の世話に一生縛られるなんて無理よ。」
やっとのことで母親がそれだけ言うと、息子は黙って電話を切った。
翌日、警察から電話があり、青年兵士の両親は彼がビルの屋上から飛び降りて死んだことを知らされた。
死体と対面した両親は絶句し、泣き崩れた。
私の前の上司(課長)は無口、無表情。雑談には加わらず、お酒も飲まず、人付き合いをしない堅物でした。
誠実公平、どんな時でも冷静なので頼もしい上司なのですが、堅過ぎて近寄りにくい雰囲気がありました。
そんな課長の机の上には奥さん、子供四人と写った写真が飾られてて、 「あの朴念仁でも家族は愛してるんだな」と微笑ましく思ったものです。
何年経っても同じ写真が飾ってあったので、理由を聞いてみたら、 「一番かわいかった頃の写真だからね」と照れ笑いを浮かべながら答えてくださいました。
それが私の見た唯一の課長の笑顔でした。
そんな真面目一徹、入社以来無遅刻無欠勤の課長が三日続けて無断欠勤。 家に電話しても誰も出ず、親族の連絡先も分からなかったので、 部長が直接課長のマンションを訪ね、管理人さんにお願いしてドアを開けていただきました。
課長は玄関で倒れていて、既に冷たくなっていました。急性心不全だったそうです。
部長が管理人さんに課長の家族がいつ戻ってくるか聞くと、「○○さんには家族はいないですよ」という返事。
あわてて人事部の資料をほじくり返すと、確かに課長には家族がいません。 課長は10年前に中途入社した人なので、それ以前に家族に逃げられていて、 写真を見て幸せだった時代を懐かしんでいたんだと思い、少し悲しくなりました。
結局、課長の葬儀にも家族も親族も顔を出さず、血縁の人たちの冷たさにもっと悲しくなりました。
後日墓参りに行くと、立派なお墓が立っていました。死んでやっと家族と和解できて、 立派なお墓を立ててもらえたのかと安心して墓石を見てみると、愕然としました。
お墓は古びていて、課長と同じ名字の名前が墓誌にいくつも彫ってありました。 課長以外は全員十数年前の同じ日に亡くなっていました。
家族を一度に亡くしてからの十数年の歳月を、彼はどんな気持ちで過ごしていたんでしょうか? 二度と会えない家族の写真をどんな思いで毎日眺めていたんでしょうか?
人を遠ざけ、自分のことを決して語らなかった課長の姿を思い出し、涙が止まりませんでした。
中三の頃、母が死んだ
俺が殺したも同然だった・・・
あの日、俺が楽しみにとってあったアイスクリームを、母が弟に食べさせてしまった
学校から帰り、冷凍庫を開け、アイスを探したが見つからなかった
母親に問い詰めると、弟が欲しがったのであげたと言った
その時楽しみにしていた俺は、すごく怒った
母親に怒鳴り散らし、最後に「死ね!」と叫び、夕飯も食べずに部屋に篭った それから何時間か経った
俺は寝てしまっていたが、父親が部屋に飛び込んできたので目が覚めた
「母さんが轢かれた・・・!」
あの時の親父の顔と言葉を、俺は一生忘れないだろう
俺達が病院に着いたとき、母親はどうしようもない状態だと言われた 医者は最後に傍にいてあげてくださいと言い、部屋を出た
それから少しして、母親は息を引き取った
その後、母親があの時間に外にいた事を父から聞いた
買い物に行くと言って出て行き、その帰りに車に轢かれた事
現場のビニール袋の中には、アイスが一つだけ入っていた事
救急車の中でずっとごめんねと呟いていた事
その時、俺のために母はアイスを買いに行って事故にあったとわかった
通夜と葬式の間中、俺はずっと泣いた
そして、今でもこの時期になると自然に涙が出てくることもある
母さん、ごめんよ
俺が最後に死ねなんて言わなかったらと、今でも悔やみ続けている
私には、兄がいました。 3つ年上の兄は、妹想いの優しい兄でした。
ドラクエ3を兄と一緒にやってました。(見てました。) 勇者が兄で、僧侶が私。遊び人はペットの猫の名前にしました。
バランスの悪い3人パーティ。兄はとっても強かった。 苦労しながらコツコツすすめた、ドラクエ3。
おもしろかった。 たしか、砂漠でピラミッドがあった場所だったと思います。
とても、強かったので、大苦戦してました。 ある日、兄が友人と野球にいくときに、私にいいました。
「レベ上げだけやってていいよ。でも先には進めるなよ。」
私は、いっつもみてるだけで、よくわからなかったけど、 なんだか、とてもうれしかったのを覚えてます。
そして、その言葉が、兄の最後の言葉になりました。 葬式の日、父は、兄の大事にしてたものを棺おけにいれようとしたのを覚えてます。
お気に入りの服。グローブ。セイントクロス。そして、ドラクエ3。 でも、私は、ドラクエ3をいれないでって、もらいました。
だって、兄から、レベ上げを頼まれてたから。 私は、くる日もくる日も時間を見つけては、砂漠でレベ上げをしてました。
ドラクエ3の中には、兄が生きてたからです。
そして、なんとなく、強くなったら、ひょっこり兄が戻ってくると思ってたかもしれません。
兄は、とっても強くなりました。とっても強い魔法で、全部倒してしまうのです。
それから、しばらくして、ドラクエ3の冒険の書が消えてしまいました。
その時、初めて私は、泣きました。 ずっとずっと、母の近くで泣きました。
お兄ちゃんが死んじゃった。やっと、実感できました。
今では、前へ進むきっかけをくれた、冒険の書が消えたことを、感謝しています。
母は、僕を女手一人で育てた。
僕の幼かったころに、亡くなった父は、マンションの10階を母に残した。 そのマンションからは、夏に花火をみることができる。
父と母が過ごした街の花火。
毎年花火の時には、窓際にテーブルを移動して、母と一緒に父を偲んだ。
花火はいつもきれいで、母はうれしそうだった。 父は、母に素敵なものを残したなっと思った。
でも、それは長くは続かなかった。
僕が高校の時に、うちのマンションの前に、もっと高層マンションが建設されたのだ。 僕は、景観が悪くなるなぁって、思ってた。
その年の花火の日、いつものように、テーブルを移動して準備してた。 花火みれるかな?って、心配だった。
花火みれなかった。見事にマンションで見えなくなってる。 音だけの花火。 あんなに悲しそうな母の横顔を見たことがない。
僕は、母を連れて、川辺に歩いていった。 母と見上げた初めての花火。
父さん、心配するな。これからは僕が母さんを笑顔にする。
近所に昔からある古い駄菓子屋がある。
経営してるのは、お婆ちゃん一人だけ(お爺ちゃんは5年ほど前に病気で亡くなってしまった)。 いつもニコニコしていて、とても優しいお婆ちゃんでお金が無い子にはコッソリ駄菓子をあげていた(漏れも昔もらった)。 そんな感じで近所の評判がとてもよかった。
ある日、お婆ちゃんが893に罵声を浴びせられてた。なんでも亡くなったお爺ちゃんに少し借金があったらしく、 コツコツ払い続けて完済したはずなのに更に80万請求され、払わなかったら立ち退いてもらうと脅されたらしい。
お婆ちゃんのピンチにまわりが黙ってられるはずもなく、3丁目の人々が一致団結、集会を開くまでに至り、893が来たときに駄菓子屋の前に整列、そして猛抗議。
漏れは学生だったので様子を見守ってたが、あれは圧巻だった、30人ほどが声張り上げてるんだもの。
893もはじめはなんか言ってたが、すぐに戦意喪失、スゴスゴと引き上げてった。
お婆ちゃんは泣きながら、ありがとう、ありがとうとずっと言っていた。
そんなお婆ちゃんは今日もお店でニコニコしている、長生きしてもらいたい。
高校三年の時。
ウチのクラスは本当に仲良くて、毎日毎日ワイワイやってた。
ただ一人を除いて・・・
ケババァってあだ名の女子がいた。 女子と言っても二年も留年してるからもう二十歳で、超ギャルで、ケバくて、超美人だけどツンとしてて、ブランド物をジャラジャラつけて、香水プンプンで。 彼女はクラスの輪に入ろうとはしなかったし、みんなも彼女を避けていた。
楽しかった一年があっという間に過ぎ、卒業式の日が来た。
最後にクラスみんなで輪になって、一人一言ずつお別れの言葉を言うことになった。
その時のケババァの言葉。
「私は白血病で入院していた為、二年間も高校を休学していました。 もう二十歳なのにコスプレみたいと思われたかもしれないけれど、 オシャレをすることはガリガリでハゲ頭だった入院中の私の夢でした。 だけどホントはオシャレよりもしたかったことがあります。みんなと仲良くしたかったです。」
そう言った彼女は目に涙をいっぱい溜めて、とても綺麗で、ツンと何てしていなかった。
それまでヘラヘラしてた奴らも泣き出していた。 彼女の言葉を一学期に聞いていたなら、きっと彼女にとって楽しかった一年になったに違いない。
何だか凄く悔しかった。
中二の時、大阪から転入してきたDくん。
妙に気が合っていろんな話をした。 でもからかわれるのがいやで話をするのは放課後。 場所は屋上にでるドアの前だった。
汚いマットに座って毎日下校時間までいろんな話をした。 夏休みも私の家の前や近くの河原でほぼ毎日話しをした。 兄が”お前ら付き合ってるのか?”って誤解するくらい会ってた。
友達の話や好きな人の話、他愛のない話ばかりだったけど とても楽しくて大切な時間だった。
3学期になってからDくんはボーッとする事が多かった。 心配だったけど聞かれたくないようだったので何も聞かなかった。 2月のある日、いつものようにマットに座って話をしていたら Dくんが突然抱きついてきた。
抱きついたまま声を殺して泣いていた。 びっくりしたけどしばらくそのままでいた。 そしてDくんはいきなり立ち上がって
「今日はもう帰るわ、バイバイ」といって階段を下りていってしまった。
そしてDくんは何もいわずに次の日に転校してしまった。
夜逃げ同然でこっちにきて、ここにもいられなくいなって夜逃げした、と Dくんの近所に住んでいた子が教えてくれた。
あの切ない泣き方は今でも忘れられない。
僕の友達が事故で亡くなったんです。 本当に突然のことで、何が何だかわかんなくて涙なんか出ませんでした。葬式にはクラスのみんなや友達がたくさん来てました。
友達は遺影の中で笑ってました。 いつも僕に見せていてくれた笑顔です。
それを見てたら自然と涙が頬を伝っていました。 それが口まで流れてきて、しょっぱいなって思って、それで自分が涙を流しているんだと気付いたんです。僕はいたたまれなくなって葬式の会場を飛び出していました。
次の日、僕はパソコンのメールをチェックしました。
そこにはあの亡くなった友達からのメールが届いていました。 日付を確認すると事故の日でした。
僕は何だかドキドキして、メールを開きました。すると
「あさってに、いつも学校帰りで通る公園で待ってるから。午後5時にね。遅れるなよ」
と書いてありました。
何でわざわざメールで?と思いましたが、何か不思議な力が働いたような気分でした。
実はその日は僕の誕生日で、親と出かけることになっていたのです。車に乗って高速道路を使い、隣の県に住むおじいちゃんの家に行くことになっていたのです。
僕はおじいちゃんに電話をし、今日は行けないと伝え、親にも今日は用事があると言いました。そしておじいちゃんの家に行くのは中止になったのです。
僕は友達からのメールの通り午後5時に公園に行きました。
もちろん誰も来ません。午後5時に鳴る、公園のそばにある時計台の鐘を聞き、僕は友達との思い出を振り返って家に帰りました。
そして家に帰ると親が血相を変えて僕に話し始めました。
「さっきニュースでやってたんだけど今日通る予定だった高速道路で玉突き事故があったんだって。予定通りに行ってたら私たちも事故に遭ってたわね」
僕が生まれた日に、僕が死ぬのを友達が救ってくれたんだ、そう思えてきてあのメールは今でもパソコンに保存してあります。
中学の頃の話。
自分の弁当のなかみではなく、 ある男子生徒の弁当の中身を見て泣けた。
そこ子はいつも美味しそうなお弁当を持ってきていた。 色とりどりでバランスも考えられた内容で、 別容器にはヨーグルトやプリンなども持ってきていた。 すべてお母さんの手作りなんだと言っていた。
ほんと羨ましくてさ、うちのババーの弁当とこうも違うのかと。 その彼がある頃からパンばかりの日々だったので、 何故?ってきいたけど黙ってうつむいてた。
それから数ヶ月たったとき、朝のホームルームで 彼のお母さんが亡くなりましたと先生から聞かされた。癌だった。
彼は机に突っ伏してしくしくと泣き出してしまい、みんな凍りついてしまった。
その彼の背中に手を回し、優しく声をかけた別の男子がいた。 その子お母さんもすでに亡くなっていて、私の母と友人だった人。
それ以降、彼らは2人でよくお昼食べていた。 弁当はお父さんが作るそうで、ご飯がめいっぱい詰め込まれ スーパーの惣菜もろってかんじ。可哀想だなとおもえたけど、 当人たちはニコニコたべてた。
やはり友人という存在はどんなものでも美味しくさせるのかね。
小学生の頃、補聴器付ければ 普通学級でも問題無い程度の難聴の子がクラスにいた。 彼女はめちゃくちゃ内気で、 イジメられこそしてなかったけど友達はいなかった。
ある時、学校の行事でうちのクラスは歌に合わせたダンスをする事になった。 みんなであーでもないこーでもないと振り付けを模索していた時に、
誰かが
「そういえば○○ちゃん(難聴の子)って手話出来るじゃん。それ参考にしたら?」 と言い出し、みんなで「手話見せて!」と○○ちゃんに集まって聞いた。
彼女はだいぶ戸惑ってたが、色んな手話を披露してくれて
「すげー!」
「色々な動きがあるんだねー」
とみんな関心。
その後、行事では手話を動きに取り入れたダンスで先生達に褒められ、 みんな手話自体に興味を持ち、学校で手話クラブが出来るまでの ちょっとしたブームになった。
「(手話の)先生」というあだ名が付いた○○ちゃんはよく笑うようになり、 行事前と比較して別人のように明るくなった。
卒業式の時、証書をもらう為に壇上に上がった○○ちゃんは、 急に立ち止まって、泣きながら、
「みんなありがとう。みんなのおかげでとても楽しかった。 私は違う中学に行くけど、一生忘れません」
と、たどたどしい言葉と手話でみんなに向かって言ってくれた。
もう、クラスの女子は泣くわ先生達は泣くわ 保護者は泣くわ校長まで号泣するわ。
ずっと年賀状のやり取りを続けていたんだが、 こないだ彼女から結婚式の招待状が届いた。
それで思い出した話。
高2の夏、僕は恋をした。
好きで好きでたまらなかった。
その相手を好きになったきっかけは、僕がクラスでいじめにあって落ち込んで、 生きる意味すらわからなくなって一人教室で泣いていた時に彼女がそっと僕に近寄って来て、 「○○に涙なんて似合わないぞ。ほら、笑いなよ!私、笑ってるあんたの顔好きだよ。」 といってくれた。
それからは僕は、いじめられてもずっと笑ってた。
泣くこともやめた。そうすると次第にいじめもなくなって気がつけば友達もたくさんできていた。 あのときの僕を救ってくれたのは間違いなく彼女の一言だった。
それ以来ずっとずっと彼女を想い続けて気がつけば高校の卒業が近づいていた。
その間何度も何度も告白しようとした。
でも好きだから、好きすぎたから失うのが恐くて実行はできなかった。
しかし、卒業が間近になってようやく覚悟を決めた僕は 卒業式の日に彼女に告白することを決心した。
そんな卒業式の三日前の朝、 いつものように彼女におはようを言おうと思って教室を見回したが彼女の姿はない。
入試も近いし、今日は休みなのかと気を落としていた。
そのとき担任の先生が暗い顔をしながら教室に入ってきていきなり僕たちにこう告げた。
「××さん(彼女の名前)が昨日、学校の帰りに車にはねられ意識不明になり、 今朝病院で亡くなりました・・」と。
何を言ってるのかわからなかった。
状況が理解できない僕はみんなが泣いてる中で泣くことすらできなかった。
そしてお通夜の日、 棺おけの中にいる清められた彼女の姿を見た時になってようやく涙がこみ上げてきた。
祭壇目をやると彼女の写真が目に映った。 彼女は笑ってた。そのときふと彼女が僕に言ってくれたあの言葉を思いだした。
僕は笑った。他の参列者の目には人の死を前にして笑顔を浮かべる僕はどう、うつっただろうか? それでも僕は彼女の写真を見ながら笑った。
彼女の死から2年がすぎ、クラスで同窓会をした。
その時にクラスの女子から高校のとき、彼女が僕を好きだったという事を教えられた。
僕はその瞬間初めて泣いた・・。声をあげて泣いた・・。
それからまた僕は笑った・・。
嫁が風呂に入っているときに携帯を見てしまった。
おれが送った「今から帰る」みたいなくだらないメールばかり。 でもフォルダがあって、そこにメールが一杯たまってた。 彼氏から彼女に送るような甘い内容のメールばかり・・百通ぐらいあったかも試練。
感情的になってしまい、風呂からあがってきた嫁に問い詰めた。そしたら
「自分が送ったメールなのに、忘れてしまったのですか?」
といって嫁は笑った。さっぱり気づかなかった。
言われて見れば、差出人がおれの昔の携帯の番号だった。忘れていた。 そうこうしてる間に嫁の携帯の電池が一つになってた。もう何年も前から同じ携帯だ。
機種変しないのか?と聞いたら、メールが消えるのが嫌だったからだと。
なんだか携帯盗み見た自分が恥ずかしくなった。
謝ると、嫁は笑いながら「こんな私を貰ってくれる人なんて貴方以外にいません」 といっておれを抱きしめてくれた。
今週末嫁の携帯を機種変しにいってきます。おれの自腹でOTL
111 名前:水先案名無い人 sage 投稿日:2006/08/12(土) 08:45:23 ID:+fn9uvqJ0
ばあちゃん……
俺がうまいって言ったら、ずーっとそればっか作ってくれたな…… 子供の俺には嬉しかったよ、ばあちゃん
死に目に会えなくてゴメンネ、子供だった俺は深夜1時過ぎまで起きてられなかったんだ
それに「倒れた」って聞いても、すぐに起きるもんだと思ってんだよ
最後に俺の名前呼んでくれたそうだね、その時のばあちゃんの気持ち考えると切なくなる
ばあちゃんが亡くなってから10数年、二十歳を過ぎた頃になって 父さんからばあちゃんの話を聞いた時ショックだった
ばあちゃんはじいちゃんの後妻で、父さんとは血が繋がってない つまり俺とばあちゃんは、言ってしまえば赤の他人
それを聞いたとき「最後に俺の名前を呼んでくれたこと」を思い出し ばあちゃんが死んだ時より泣いた
血の繋がりとか戸籍上とか関係無く、ばあちゃんは俺のばあちゃんだった
>>205
わぁ・・これ初めて見たけどまんまワイや・・まだ婆ちゃん生きてるけど
母親は最大被災地の一つ、四川省綿陽市北川(ほくせん)県で、地震発生翌日の13日、 四つんばいになった格好で遺体で発見された。遺体は倒壊した建物に圧迫されており、救援隊は立ち去りかけたが、 何となく気になり、ふと遺体の下のすき間に手を差し入れたところ、温かいものに手がふれた。
「赤ちゃんが生きている!」
救援隊員が叫び、救出作業が再開。生後3~4カ月とみられる無傷の男の赤ちゃんが毛布にくるまれて発見された。
救援隊員が母親の体を調べると手に握られた携帯電話の画面に、1行のショートメールが残っていた。
「赤ちゃん、もし生き伸びてくれているのなら、私があなたを愛していたことを絶対忘れないで…」
子を思う母親の愛の深さに、救援隊員も思わず涙を落としたという。
おれが小学生の時、事故で両親が死んだ。
その後親戚中をタライ回しにされた。
おれが「高校入学を機に1人暮らしを始めたいです」と言うと、親戚のヤツは「好きにしろ。」 と二つ返事で文字通りおれを放り出した。
金も貰った。300万。おれの家を売ったし貯金とかもっとあるはずだが、おれはなにも言わずにそこを飛び出した。 なによりその場所が耐えられなかった。
そして1人で暮らし始めた。そして高校2年の時に知り合った友達の家に初めて遊びに行った時。 時間が遅くなって晩ご飯をごちそうになることになった。
友達の家は、親父さん、お母さん、友達、弟の4人家族だった。
おれを入れて5人の食卓には、ごはん、味噌汁、にくじゃが、あとよく判らない煮魚みたいなものが並んだ。
おれは「うまい!うまい!」と連発して食べた。
友達「そうか~?こんなん普通だよ?」
おれ「なに言っとるんだ、こんなん毎日食べれるなんて羨ましいて!」
おれ「炊きたてゴハンなんてすっげーゼイタクだて!」
それを聞いていたお母さんが「○○くん、いつもどんなもの食べてるの?」と聞いてきた。
おれは「いつもバイト先でまかない食ってます。あと家だとおにぎりとかパンとか、ラーメンとかです」と答えた。
お母さん「・・・お母さんはいらっしゃらないの?」
おれ「あ、おれ両親いないんすよ。昔事故で・・・。ハハッ。(笑)」
なるべく気を使わせないようにサラッと言ったつもりだった。 ところがお母さんはいきなりおれの手を両手で握ってきた。
おれがビックリしてると、涙目で「○○くん、困ったことがあったらうちに来るのよ」って言った。
なんだか分からないけど、おれも泣けてきた。家族なんて欲しいと思ってなかったけど、その友達が本当に羨ましかった。
この時のめしの味が今でも忘れられない。
それからもそいつの家にはバイトの休みの日にゴハンを食べさしてもらいに行った。 いつもタダメシじゃ悪いから、一度お金を持っていったら、逆に怒られた。
「子供が余計な気を使わなくてもいい」って。
でもうれしかった。
俺ニートだからいつも昼過ぎまで寝てるんだけど、たまに朝早く目が覚めることがあってさ ぼーっとしてたら母さんが部屋に入ってきて「おはよう」って言ってたのね
「おはよう」って返事したら、俺が起きてる事に気付いてなかったみたいで母さん驚いてた
そんな事が何回かあって、母さんは俺が寝てるのを知ってて、毎朝返事のない「おはよう」を言ってくれてる事に気付いた
たいした事じゃないんだけど、なんか凄い嬉しかった
真面目に生きようと思った
わしの右腕をやる。だから頑張れ
村田兆治が原因不明の右肘の痛みで何年も苦しんでいた時に、村田の父親が危篤に陥ってしまった。
村田が急いで父親の元へ駆けつけると、それまで昏睡状態だった父親が目を覚まし、 「兆治、わしの右腕をやる。だから頑張れ」 と、苦しい息の中で村田に言ったという。村田は父親のその気持ちが嬉しくて涙が止まらなかったそうな。
父親は他界したが、その気持ちが通じたのか、村田は名医ジョーブ博士の手術により 右肘の痛みを完治する事が出来、見事に復活を遂げた。
5%の手術を乗り越えた男
貼ってくれてるニキ有能
しっかし2chの歴史もなげーからコピペもようあるなあ
なんかこのスレみてすごく涙出た
受験生なのにまとめサイトみて焦って母親に暴言吐いて…
お母さん本当にごめん。俺勉強します
(゚Д゚)ゴルァ!