この高校生活でも、中学生のときと変わらない「名前だけの存在」だ。
しかし、中学のころよりもっと印象は薄くなっているはず。高校一年になり、学校生活でやってみたかったことをやる度にあらゆる人の私に関する記憶を消してきた。
積極的に記憶を消す能力を使ってしまっているのである。高校以前と以後で私の記憶を消す能力の使い方は大きく変わった。
小学校から中学校の間はしぶしぶといった風に、降りかかる火の粉を払う程度、つまり受動的に記憶を消してきた。
自ら積極的に記憶を消そうという意思はないから、記憶を消す回数も少なく、クラスメイトの頭の片隅に「授業を真面目に受けている影の薄い人」
程度には認識されていたと思う。
しかし、高校生活は真逆だ。
遅刻のもみ消しや、授業を抜けて屋上に行くやなんやらで積極的に記憶を消している。
そのため、記憶を消す回数は中学の時に比べて10倍くらい上昇しているのだ。
毎時間サボっているというわけでもないけど、「授業を真面目に受けている影の薄い人」という認識もクラスメイトにはされていないと思う。
「あいつの名前なんだっけ……たしかセなんとかだよな」とひそひそ囁かれる具合だ。
頭文字程度の認識しかされていない。
これで、中学と同じ「名前だけの存在」に変わりはない。と言うのは誇張だったかもしれない。
俺は記憶を消す能力を無意識に使ってたんだな
天使ちゃん?
だから、そんな私のフルネームを言える人がいるなんて、思いもしなかった。
でも、どこかで期待していたから、こんなにも胸がきゅうと締め付けられて、目頭が熱くなるのだろう。
意識していないとわんわんと大声で泣いてしまいそうになる。だから私はイシハラくんと会話を続けて、泣きたい気持ちを押し込めようと試みた。
「なん……で、私の名前、憶えてて…くれてるの?」
「いや、なんで泣いてんだよ」
「泣いてないっ!」
「いやどう見ても泣いてる」
私の試みは失敗していた。視界がぼやけている。イシハラくんの顔がよく見えない。声はどうしても震えてしまって、このままだと嗚咽に変わってしまいそうだった。
泣いているのがバレてしまったのなら、もう遠慮なく泣いてしまってもいいのかな。
泣くのは、小学生のあの時以来だ。あの日以来どんなに辛くても涙はでなかった。
ああ、私は嬉しいんだ。
肩を揺らして泣く。溢れる涙は何度拭ったところで止まらなかった。
「お前、よく泣くよな」
慰める気もないイシハラ君はごろんと仰向けに寝て、青空を眺めている。それが私にとってどれほど優しい行為なのか、彼はわかっているのだろうか。
後で、イシハラくんの記憶の中にいる「泣いた私」を消そう。
そうすれば、私は思う存分、幸せという幸せを味わい尽くすまで泣いていられる。
満足したところでイシハラ君の記憶を消して、「屋上で出会った普通の女の子」としてもう一度自己紹介するんだ。
クラスメイトにはできなかった、特別な自己紹介をしよう。私の好きな本とか、音楽とかを笑顔で饒舌に完璧に伝えよう。
だから今はそのために思いっきり泣く。
リアルにわんわんと泣く女子高生にさすがにうろたえて来たのか、イシハラくんは「おい、アカリさん」と遠慮がちに声をかけてきた。
ひょっとして慰めてくれるのだろうか。彼には似合わないけれど、聞いてやるのもやぶさかではない。
泣きながら言葉を待つ。涙を拭くついでに、イシハラくんをちらちらと見る。イシハラくんはポケットからスマホを取り出して、私に向けた。
「写真はだめ!」
「いや、撮らねえよ……。時間確認してるだけだ。つーか泣いてる焼きそばパン女撮ってなんになるんだ」
「うぐ……」
「あと少しで授業始まるけど、いつまで泣いてるつもり?」
「気が済むまで」
「そうかよ」
彼はそうぶっきらぼうに呟いて、スマホを学生鞄に放った。
「俺も気が済むまでここにいる」
この人、やっぱり優しいんだな。
理由とか聞かずに、ただ一緒にいてくれることは私にとって一番の慰めだ。
涙の理由を聞かれて、名前を知っててくれてうれしかったから。なんて答えれば変な女だ。
もうイシハラくんにはそう思われているかもしれないけれど、せめてミステリアスな理由で泣いているのかもしれないという含みは持たせておきたい。
次の授業のチャイムが鳴るまで、私は泣き続けた。
「もう気は済んだのか?」
「うん。あと10年くらいは泣かなくて済む」
青空に浮かぶ雲を見るついで。それくらいの僅かな目の動きで、イシハラくんは私を見た。
「そんな笑顔で言われてもな」
私は笑顔だったのか。私はまだ笑えるらしい。その理由も嬉しさに起因しているのだろう。
名前を憶えていてくれていた人がいた。という事実は、私がこれからも生きる上での励ましになる。
私はイシハラくんの隣に座った。昔からの癖で、体操座り。イシハラくんは急に近づいてきた私に動揺して、距離を空けた。
「なんで逃げるの?」
あとで記憶を消せると思うと、大胆に振る舞える。
イシハラくんは上体を起こして私を見やる。
「俺の縄張りに侵入されたからな」
「だったらせめて自分の縄張りを守る努力をしなさい」
こんな、誰もが当たり前に過ごしているくだらない時間を、私はずっと体験してみたかった。
私とイシハラくんは仲良くなれたと思う。
くだらない会話をたくさんした。女子高生らしく、不意な動きでドキドキさせてみたりもした。楽しい時間は早く過ぎるもの、ということを私は今まで忘れていた。授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った時、彼は立ち上がる。
「じゃあな、お前もはやく行かないと授業間に合わないぞ?」
そそくさと去ってしまう背中に、私はだめだとわかっているのに、声を掛けた。
「明日もくる?」
「昼休みにな。今度は授業、サボらせないぞ」
私は、イシハラくんの中にいる私を消すことができるのだろうか。
充分だった。これだけの幸せを味わえたなら、あと10年は本当に生きていけるのだ。
それでも、私はまた明日もくる? などと欲をかいてしまった。幸せは底無し沼のようなものだ。
どこまでも落ちてしまいそうになる。
そして幸せなぶん、怖かった。またあのトラウマが顔を出してくる。いつか、私は忘れられてしまうかもしれない。
そのときの私はどうなってしまうのだろう。
仲良くなっただけ辛いのは目に見えている。忘れられるよりかは、忘れさせたほうが傷つかない。
だから、思い残すことがないと胸を張って言えるくらい幸せを噛みしめて、そのとき、イシハラくんの中の私を消そう。
イシハラくんのように、仰向けに寝転んで空を見上げた。青空はどこまでも澄んでいる。なんだか懐かしい感じがした。私は、昔もこんなふうに、大切な人と空を見上げていたんじゃなかったけ?
ハロ現象は未だに私の前に現れてはくれないが、私のハロ現象への思いの形がはっきりと掴めた。
この1週間、私はイシハラくんと屋上でお昼ご飯を食べた。くだらない話もたくさんしたし、お互いのことを話したりもした。
イシハラくんは頭が良いらしい。暗記科目では90点以下はとったことがないらしいのだ。
「だからお前のこともそう簡単に忘れないと思う」
と彼は言ってくれた。
私は嬉しかったが、同時に悲しくもあった。
どれだけ私のことを気にかけてくれていても、それに関係することなく記憶は消せてしまうものだから。
私は相当に、イシハラくんに心を許してしまっていた。
まずい傾向だと思った。
このままだと、私はイシハラくんになにかもを話してしまいたくなる。
小学生の時のことや、息苦しい家のことなど、これまで辛かったことを全部、もちろん記憶を消せることも含めて彼に打ち明けたくなってしまった。
でも、打ち明けてしまったその時が、私とイシハラくんの思い出の終わりになることもわかっていた。
私はすべてを話し終えた瞬間に、イシハラくんが私の話を聞いて浮かべる表情が怖くて、記憶を消してしまうだろう。
そのとき、範囲を限定して記憶を消すことは不可能だ。どこの記憶も大切で、選び取ることができない。
おそらく、名前ごと忘れさせてしまう。しかし、それはきっと、イシハラくんには良いことなんだろう。
ここでイシハラくんのことを引き合いに出して、申し訳ないというのは詭弁なのかもしれない。
私はわがままの責任をイシハラくんにかぶせてしまっている。
私は、私の責任で、私のことだけを考えて、私の思い通りにしなければならない。
私は何を求めているんだろう。
私は、好きな人にすべてを打ち明けて、名前だけではない私自身の存在を認めて欲しいんだ。
それが私の、わがままで自己中心的な何の遠慮もない願い。
この2chスレまとめへの反応
なっげ
はいはい
ポエム。