今日、すべてを打ち明けよう。そしてその責任として、イシハラくんの記憶を消す。
それが最適解だ。
もし、イシハラくんに認めてもらえなくても、私はこれまでの思い出で生きていけるし、もし認めてくれたのであれば、人生でこれ以上ないくらいの幸福を味わったということを胸に抱えて、生きていける。
私はもう、充分幸せでしょう?
屋上の扉が鈍い音を立てて開いた。イシハラくんはいつものように、やる気のなさそうな顔をして歩いてくる。
屋上の金網から手を放して、彼を見つめた。目があっても表情を変えない懐かない猫のような彼に、私はできるかぎりの笑顔を向ける。
私が話している間、イシハラくんは変に相槌を打ったりせず、ただ黙って聞いてくれた。
「これが、私の昔話」
長い長い話が終わった。イシハラくんは静かに息を吐く。
「有体な言葉で悪いけれど、その、なんだ。随分辛かったんだな。でも、これからは俺が憶えていておいてやるよ」
私の話を嘘だと疑うこともせず、彼は芯の通った優しい声で言葉を紡いだ。その最後の言葉を聞くと、どうしようもなく嬉しくなる。私は、千家灯として、ようやく誰かに認められたんだ。
もう思い残すことはないと思ったけれど、最後にもう一つ。
「私のこと、好き?」
「なんで急にそうなるんだ」
「私は好きだよ」
もっと言葉を捻ろうと思っていたけれど、出てきたのはなんの飾りもない言葉だった。
イシハラくんは上気したように頬を赤らめている。返事を聞くべきだろうか。いや怖い。私は臆病だ。返事をされる前にイシハラくんの記憶を消そう。
私の願いはもう叶った。言いたいことも言えた。あとは責任をとるだけだ。
私は指と指を絡み合わせて願った。どうか私のことを忘れますように。
屋上の風に髪を弄ばれて、目を開ける。
隣にいる彼と私は、もう他人だ。
あの日思ったように、完璧な自己紹介をしよう。
そして屋上は立ち入り禁止だから出ていきなさいと、良識のある人を演じて、私とイシハラくんは無関係になる。
「はじめまして、私の名前は」
「千家灯、で間違いないか」
イシハラくんは私の言葉を遮った。
「なん……で」
また涙が溢れそうになる。声は震えてしまって今にも切れてしまいそうだ。
「さっきの告白の返事だが、俺も好きだ。ずっと。6年間くらい」
「どういうこと……?」
疑問符だけで精いっぱいだった。地に足のつかない嬉しさで頭の中がこんがらがる。
「だから言っただろ、俺は憶えてるって」
「でも私は、記憶を消せて…今までも、そうやって」
「わかってるわかってる。さっき話聞いたから全部わかってるよ。今は俺の話を聞いてくれ」
「うん……」
「俺とお前は一種の病気なんだよ。灯は、どうして自分が記憶を消すことができるか、考えたことあるか?」
「ない、」
「灯はそのきっかけを忘れてる。灯が消せるのは他人の記憶の中の灯だけじゃないんだ。灯の記憶の中の灯も消せるんだよ」
私はただ彼の言葉に耳を傾けることしかできなかった。私が知らない私のことを、彼は知っている。
私は泣くのを堪えて、続きを促すように彼を見つめた。
「これは灯にとって辛い話かもしれない。たぶん、灯が忘れたいと願えば忘れてしまえる。でも、俺はきちんと受け止めてほしいと思ってる。6年かけてようやく会うことができたんだ。それくらいの我儘は聞いてくれると嬉しい」
私は泣いて赤くなった顔を両手で覆った。泣いてはいけない。最後に両目をごしごしとこすって、イシハラくんにぐちゃぐちゃの顔を向ける
「俺の家族と灯の家族は、6年前の初詣通り魔事件に遭っている。それで、俺の父は知らない人の子供をかばって死んだ。そして灯のお父さんもまた死んだんだ。俺とお前をかばって」
人が虫のように密集していた。長蛇の列は俺にとって退屈そのもので、退屈しのぎに父さんに肩車をしてもらった。
高い視線からは列の先頭やその先の景色まで見通せた。首を巡らせてみると、右の列だったかな、ぽっかりと穴があいていた。
こんなにも辺りは密集しているのに、そこだけ異様に人がいなかった。俺はおかしいと思って父さんにそれを言おうとしたとき、女の人の叫び声が聞こえた。
人々は混乱し、我先に我先にと逃げる。
俺は意味がよくわからなかった。
その混乱の中で誰かが「通り魔だ、逃げろ」と叫んだ。
その言葉が一層の混乱を招く。
通り魔と言われても、俺はさっぱり意味が解らなかった。
だが父さんは違った。逃げ惑う人々の流れに反して、叫び声がした場所のほうを向く。俺を肩車から降ろして「お母さんには留守番してもらっててよかったな。お前は人の流れに従って走れ」と言って、あの場所へ走って行った。
俺は嫌な予感がした。
このまま逃げたら後悔すると思った。
俺は父さんを追いかける。大粒の砂利が敷き詰められているせいで転んでしまった。
「大丈夫?」
俺に声を掛けたのは、幼いころの灯だった。白い肌と顔のパーツのそれぞれが、美しい脆さを感じさせた。たぶん、泣き虫だな、と思った。
「はやく逃げなきゃいけないよ、お父さんとお母さんは?」
灯の父親が心配そうに尋ねる。
「あっち、行った」
立ち上がりながら、父さんが走って行った方向を指さした。
灯の父親と母親は小さな声で何かを相談している。
「いかない方が良い。代わりに僕がみてくるよ」
灯の父さんはそう言って、俺の頭を撫でた。灯と灯の母に大丈夫だから、と強く優しい声で言い、走って行った。
俺が父さんを追いかけていなければ、ここで躓いていなければ。後悔は今も消えない。
数分の間、俺は千家家と行動を共にした。
「今はここから逃げますよ」
と灯の母は言い、俺の手を引いた。
「あなたのお父さんは私たちのお父さんが連れてきますから、安心してくださいね」
灯の母は静かに微笑んだ。もう、その微笑みを見ることはできない。
「そーだそーだ、ウチのパパは無敵」
灯も俺の手を引く。
俺は安心して、手を引かれるままに進む。出口は混雑していてまだ通れそうにない。
けらけらと、笑い声が聞こえてきた。その声に振り向くと、一人、キャップをかぶった男が空を見ながら笑っている。
「あいつ、捕まったな」
男は急に笑うのをやめて、ぽきぽきと不快な音を立てて首を回した。
ポケットの中に手を入れて何かを探してる。
俺は怖くなって目を背けた。
早く逃げたかったが、逃げる場所もどこにもない。堅実的なのはここでゆっくりと進む列に身を任せることだけだ。
皆急いでいる。焦燥が伝わってくる。人が多すぎて、どうしても停滞せざるを得ない。
灯の母からも焦りが伝わってくる。ここで私がうろたえたら終わってしまう、と思っていたのだろう。
つーと冷や汗が灯の母の頬を伝うと、灯の父が走ってきた。浮かない顔をしている。
「パパおかえり!」
灯の無邪気な声を、灯の父は黙殺した。
その雰囲気を察して、灯の母は唇から声にならない声を漏らす。
「通り魔は捕まった、安心していい。でも……ごめん」
俺はその言葉の続きが、なんとなくわかってしまった。
「君はイシハラくん、だよね」
俺は頷いた。
「これは、君のお父さんの所持品なんだ。本当に、ごめん。僕は何もできなかった。駆けつけた時には、もう遅くて…」
免許証や、財布、お母さんへのお土産のお守りを渡された。お守りは強く握りしめられた跡があり、僅かだが血がついていた。
「通り魔に襲われている子供を助けて、君のお父さんは……亡くなってしまった」
胸が苦しかった。足の震えもおさまらなかった。今にも泣いてしまいそうになる弱い自分を押し殺そうした。
声は我慢できたが、涙は我慢できなかった。
一滴涙が頬を落ちた時、俺は強く思った。
こんなに悲しいけれど、忘れちゃいけない。
見ず知らずの誰かを守って死んでしまった父さんを憶えていなきゃいけない。涙を拭って灯の父に頭を下げる。
「ありがとう、ございます」
灯の母にぎゅっと抱きしめられた。
灯は俺の手を強く握りしめる。
こういうとき、行動に乗せる思いは言葉に託された思いより饒舌に心に染み入る。大人がもう一人かけつけてきて、俺に事件の顛末を伝えた。
頭の中がぐちゃぐちゃなくせに、どうしてか滑らかに、この事件の全容を把握することができた。
この通り魔事件は、子供を対象にしたものらしい。
犠牲者の数は三人。どの人も子供をかばって殺された。そのため子供の死傷者は0である。犯人は勇気ある大人たちの手によって捕えられ、今は完全に無力化されている。
あとは警察が来るのを待つだけらしい。一応、事件は終息した。
この2chスレまとめへの反応
なっげ
はいはい
ポエム。